木 呂 子 敏 彦 年 譜

年号 西暦 年齢 本人記事
大正
3
3
1914
0
11日 北海道中川郡池田町にて木呂子敬一・喬の長男として生まれる。
9
4
1920
6
河合尋常(池田)小学校入学。この年、小樽高等商業学校商品学教授伯父西田彰三※1の家に妹の手術の付添いで滞在。第一艦隊が小樽港に入港した栃内曽次郎海軍大将、第一艦隊司令長官※2が西田家を訪問。
15
4
1926
12
帯広中学校(現帯広柏葉高等学校)に入学。4期生
昭和
2
1927
13
この頃、音更にできた民間飛行場の上出飛行士※3による池田町清見が岡公園での曲芸飛行を歯科医を中心に企画し、町内有志から寄付を募り実現させる。
3
1928
14
同級生龍田政治君の誘いで来帯した賀川豊彦の講演※4を聴き感動する。
4
1929
15
学校の図書館にて、後藤静香※5の著書『希望』を見つけ希望社の運動に共鳴し、その後希望社の運動に没頭する。
5
8
1930
16
大雪山系二ペソツ山に初登頂※6
6
3
1931
17
帯広中学校を卒業
4
河西支庁視学(教育局長)高橋正男氏に誘われ、代用教員となる。
十勝管内清水町下人舞の小学校に赴任。凶作※7により疲弊した農村に小学校に青年学校が併設され、夜間は青年に授業する。
雑誌『青年』「手紙の友会」の5人1組の文通相手の一人として金子智一※8と知り合う。
8
4
1933
19
河西郡御影村(現清水町)上旭小学校準訓導
9
4
1934
徴兵検査、甲種合格第二補充兵
20
庁立十勝農業学校に併設された社会人対象の研究科※9に入学する。
7
17日  佐上北海道長官※10が帯広農学校研究科を視察。30分間「北海道の農村を救うのは青年である」と訓辞。
10
4
1935
21
十勝農業学校研究科助手
11
4
1936
22
佐上北海道長官から道庁勤務を要請され、道庁教育課に配属される。
北海道庁学務部学務課社会教育主事補任官並補職
北海道の青年団を統括する協会の事務局長として、『北海道青年』の編集にあたる。暉岡義等※11著『社会衛生学』を一読して、人口論から始まる本の内容に衝撃を受ける。
5
昭和天皇行幸事務取扱
旭川・帯広・札幌・凾館御親閲のため式場並御立台整備担当班長下村湖人※12を羽幌での青年幹部講習会の講師として招く佐上北海道長官が辞任。朝鮮総督府警務局長の池田清が北海道長官に就任
12
5
1937
23
池田清長官が辞任。
昭和6年から岩手県知事を務めた石黒英彦※13が北海道長官に就任。
6
金子智一が神兵隊事件で検挙2年間勾留された影山正治等と日本主義文化同盟の設立を準備していた頃特高の取調を受け※14、手帳に木呂子敏彦の住所・氏名があり、札幌の特高警察の取調を受ける。
13
3
1938
24
『婦人の友』3月号に高村光太郎が「新日本娘讀本」で宮澤賢治の「永訣ノ朝」、「松の針」、「雨二モマケズ」を紹介し、感銘を受ける。
4
加藤善徳※15から雑誌の編集の仕事に誘われ、道庁を退職し上京する。上京し、上野の蕎麦屋で初めて文通相手の金子智一と会う。
月刊誌『生活』編集部※16に勤務。日本大学文学部史学科入学。
宮沢賢治のことを教えを請うため高村光太郎宅を訪問。
下村湖人の「次郎物語」の続編を『生活』に連載した。
14
4
1939
25
加藤善徳が著者から『次郎物語第1編』の出版を依頼され、岩波書店に持ち込み断られたのを機に高山書店に持ち込む※17
5
金子智一などが発起人になり、倉田百三を慕う青年婦女が集う「生きんとての会」が発足※18
7
奈良県桜井市で開催された賀川豊彦の主宰の「イエスの友」夏期修養会に佐藤セツとともに参加※19
15
5
1940
26
12日 「生きんとての会」第13回会合。保田與重郎が「日本文藝の系譜」と題し講演。この頃から保田與重郎に傾倒する。
23日 日本青年館で開催された宮沢賢治の親友である藤原嘉藤冶が主宰する第1回の「東京宮澤賢治研究会」※20に出席。
8
結婚挨拶で佐藤セツの故郷盛岡に赴く序に、花巻の宮沢賢治の実家を訪問、賢治の弟清六に会い、賢治の遺言で印刷された法華経※21千部のうちの一部を頂戴する。
12
佐藤セツと結婚。千葉県市川市中山法華寺の裏に新居を構える。
16
3
1941
27
日本大学文学部史学科専門部終了。
8
応召。達9503部隊、宗谷要塞重砲兵連隊第1中隊に編入される。
11
長女紀子誕生
17
3
1942
28
陸軍一等兵幹部候補生を命ず。
4
陸軍幹部候補生、陸軍上等兵を命ず。横須賀の陸軍重砲兵学校入学
6
陸軍伍長の階級に進む
7
保田與重郎宅を訪問する。
9
陸軍軍曹の階級に進む。保田與重郎より自著『民族と文藝』が届く。
横浜重砲兵学校甲幹(甲種幹部候補生)課程を終え、第2中隊付見習士官となる。
10
陸軍曹長の階級に進む。宗谷要塞重砲兵連隊付を命ぜられる
11
13日 稚内より高野中隊長(23歳)とともに宗水丸にて西能登呂要塞※22に着任
16日 宗谷海峡航行中の信濃丸が米国潜水艦に攻撃され、船備付の大砲で威嚇射撃を続け撃沈を逃れた。※23要塞は3日間警戒態勢配置についたまま。3日間の警戒態勢で上水道設備の不備や糧食補給が断たれる問題が判明。
12
保田與重郎から葉書※24が届く。
18
2
1943
自らリーダーとなり落差を利用した上水道を整備し、自活漁業、自活農場(牛、馬、豚、鶏の飼育)、自活蔬菜園、炭焼部隊と隊員が階級に無関係に役割が与えられた自活する軍隊に変えた。※25
8
29
保田與重郎から葉書※26が届く。
10
宗谷海峡に米国潜水艦を初めて宗谷、西能登呂要塞から砲弾を打つ:※27
19
1944
30
20
3
1945
31
東京大空襲。空襲直後、松戸陸軍工兵学校で塹壕築城術、中野陸軍学校で遊撃戦術を将校学生として受講。
病臥に伏した保田與重郎宅を訪問※28
4
豊原に赴き、大津樺太庁長官に地下壕化に必要な資材の調達を斡旋してもらうため一週間滞在し直談判する。※29要塞砲台移設・掩蔽工事のために歩兵一個大隊が応援に来る。工事完成は8月末目途を予定であった。
7
高野隊長が稚内に転任。内田久雄大尉が着任※30
海豹島の電深施設(所長幸田中尉)が米潜水艦のロケット攻撃を受ける※31
8
9日 ソ連が日本に宣戦布告、進攻
15日 天皇「終戦」の詔書放送
18日 連隊司令部の命により樺太出身の兵帰郷者を10名選定、帰郷。
20日 第2中隊の北海道出身者も、宗水丸に一旦乗船し帰郷の途につくが、緊急復帰命令により下船※32
23日 戦闘準備の命があり(高野少佐の命令)
24日 稚内側の司令部と専用電話で西能登呂要塞第二中隊の北海道帰還を要請。一旦了承された後、その後残留を指示。稚内側が電話回線を一方的に切断する。※33
25日 停戦協定により旧に復し待機。
30日 ソ連海軍艦艇2隻、白旗を掲げ上陸。ソ連軍による武装解除。大泊のソ連海軍司令官迄の同行を求められ、選任将校としてソ連艦艇に乗船し大泊に向かう。
31日 大泊上陸、ソ連基地司令官と直接武器引渡手続終了。そのまま拘束される。
9
20日 集結した将校集団だけが下士官・兵と隔離され貨物船に乗船。
大泊出港
25日 ウラジオストックに入港
二週間一日に将校用水筒の小さな蓋コップに、二杯の大豆の煎豆の配給。殆ど全員が下痢症状と栄養失調症状。
10
5日 バラック建収容所に入り腰痛と不眠症,、歩行困難となり、重症患者になってしまう。
11
3日 寝台車に乗せられウラジオストックから南下。クラスキーノという草原で天幕生活。この地で満州、朝鮮から移動してきた将校軍団と合流
30日 2000名ずつの梯団が編成され、順次移動。大型貨車の二段装置に30名づつ乗車。カリムスカヤ駅で下車。3か月振りの入浴。
12
24日 ウラル山脈を越え、ヨーロッパ・ロシアに入り、タンボフ州ラーダに下車。
ゼムリヤンカ「洞窟兵舎」に収容される。高速道路築造工事に従事。
21
1
1946
32
更に60km南下、スターリニッツというコルホーズで農作業に従事。
ボルガ川を渡りタタール共和国カザン東キズネル駅で下車。
徒歩で80km離れた南のカマ川河畔都市エラブカ到着。
22
1
1947
死の伐採隊といわれるボロショイボール(大森林)の伐採労働。
8
33
3日間の作業ボイコットを計画。ストライキ決行。政治部将校が駈け付け政治部将校に収容所長の無謀な取扱態度を説明。収容所長は営倉に入れられ、8月末のエラブカへの帰還を認める。
10
ダモイの話が本格化。出発直前オタフク風邪にかかり病院に入院。
11
第4梯団に入りキズネルまで80km徒歩行。3段装置の貨車に乗車、東に向かう。ナホトカ到着
12
3日抑留者帰還船大安丸にて帰還。舞鶴港伝染病発生のため函館港上陸
引揚援護局名簿の脱漏に「棄てられた部隊」※34と直感、内田中隊の消息
を知らせため、「白主通信」第1号(22年12月12日)を発行。
年末に家族が疎開した上士幌に戻る。
23
1
1948
34
20日 「白主通信第2号」(白主友の会)を発行
4
4日 「白主通信第3号」(白主友の会)を発行
抑留以来の心臓脚気の無理が祟り深川市の布川医院に1週間入院。
連合軍から召喚により急遽退院上京、市谷駐留米軍施設でシベリアでの収容所配置図、地区番号、収容所番号等の詳細図を見せられ、その青焼を入手。
8
10日 「白主通信第4号」(白主友の会)を発行
帯広中学の講師,になり、「ラジオ」の行商に十勝管内を廻る。
10
十勝の農民同盟の友人達に担ぎ出され、北海道教育委員(公選制)の選挙に立候補。全道1区で当選。農漁村、僻地教育に力を入れ、農業定時制高校の新設、スクールバスの導入を図る。
12
25日 「白主通信第5号」(白主友の会)を発行
24
1
1949
35
1日 長男豊彦誕生
この年の暮までに内田部隊167名のうち166名の戦病死、帰還の区別ができたが、唯一鈴木栄の消息は不明のままだった。
25
10
1950
36
北海道教育委員第二回選挙当選
26
12
1951
36
次男真彦誕生
27
3
1952
38
十勝沖地震震度6M8.2平取町二風谷小学校が大被害を受け、穂坂校長、貝沢正PTA会長等が道教育委員会に学校建物再建を陳情する。「知恵と力」を貸して欲しいと要請される。
アイヌの歌人違星北斗※35の遺稿にある「コタンに浴場を建てたい、希望園を造りたい」の夢を話して、風呂と水洗便所のある学校を提案
28
1953
39
29
8
1954
40
二風谷の人が総出で手伝い、二風谷小学校※36完成
「違星北斗の会」を結成して『違星北斗遺稿集』を作成し、違星北斗の歌碑建設を呼びかける。
30
4
1955
41
アイヌの偉材のことを放送して欲しいとNHK札幌の小此木放送部長に提案し、「光を掲げる人々」の番組で違星北斗の生涯※37が全国放送される
田上義也設計により阿寒町まりも校舎完成
31
1956
42
茅部高校(旧臼尻漁業高校)の実習船「栄光丸」完成
公選制教育委員任期満了。教育基本法が制定される。
32
1957
43
札幌市琴似町山の手に家を建てる。この家の設計は田上義也、山崎慎一ブロック造の水洗トイレ、ペチカのある家で北海道新聞に寒地住宅の一つとして紹介される。
6
北海道農業自立推進協議会常任理事(~昭和35年5月)就任
33
1958
44
抑留された戦友のうち唯一人不明であった鈴木栄の消息が同じ収容所に居た林田氏の書簡により死亡を確認
34
1959
45
中札内村農協(組合長梶浦善福氏)が設立した北海道畑作研究所理事就任
11
第1回移動村づくり大学開催。2週間関東から九州までの10数ヶ所の農業先進地を訪問して学ぶ移動大学を企画し、自らコーディネーターとして参加。
35
8
1960
46
幼友達の吉村博帯広市長の招きで帯広市役所経済厚生部長に就任する。
地方自治体で初めて総合計画※38を策定したものの、北海道庁の革新市政に対する非協力的対応、国の予算制度・法律に阻まれ、施設整備が進捗しなかった。道教育委員時代の文部省との予算折衝手腕を買ったもの。
36
1961
47
年始挨拶に葉書に1,000字の所感を綴る「独言独語」を始める。
4
日本経済新聞の文化欄に帯広市について「水と空気が日本一うまい街」として紹介する。
37
8
1962
48
帯広開基80周年市政30周年帯広市民会館開館(大ホール定員1,600名)
38
1963
49
石勝線期成会事務局長就任
39
5
1964
50
緑の工場公園「西帯広工業団地」※39完成
9
帯広児童会館開館
12
帯広空港(第3種)供用開始
日本国内航空札幌~帯広~釧路便(コンベア240)就航
40
1965
51
日本国内航空の東京直行便(YS11)就航開始
41
1966
52
帯広民衆駅開業
42
9
1967
53
違星北斗歌碑建設打ち合わせで平取町二風谷を訪問。
43
9
1968
54
札幌市円山競技場で開催された「北海道百年祝典」に公選制北海道教育委員経験者として招待される
11
平取町二風谷小学校校庭に違星北斗の歌碑が除幕される。
44
1969
55
45
4
1970
56
帯広市企画室長就任
5
帯広市第二期総合計画(10年)策定審議会発足
9
審議会答申「グリーンプラン」として提起
46
3
1971
57
市議会で「第二期総合計画」承認
7
川喜田二郎の第8回移動大学を十勝の忠類村に誘致。
10
帯広市助役就任
47
4
1972
58
運輸省航空大学校帯広分校開設
9
父敬一没享年91歳
48
2
1973
59
帯広松下電工設立。翌年5月本格創業開始(配線器具・制御スイッチ)
(平成19年10月パナソニック電工帯広株式会社に社名変更)
(平成23年1月パナソニックデバイス帯広株式会社に社名変更)
3
「帯広の森」調査特別委員会審議開始
6
『日遠上人のおまんだら』木呂子家史話第一輯
11
臨時市議会「帯広の森」計画※40案可決
49
2
1974
60
帯広圏都市計画公園決定(面積334.Ha)
帯広市長吉村博辞任
3
用地買収開始
4
帯広市長田本憲吾就任
7
帯広市助役退任
9
帯広の森市民協議会結成
50
3
1975
61
帯広のアドニス少年少女合唱団がブルガリアのル―セ市での国際音楽祭に招待され、帯広市民代表として同行
『都市計画』100号記念号、「町の中から電柱を追放できないか」
旭川大学地域研究所特別研究員嘱託
宮沢賢治文学展を帯広で開催。5日間で1万人の入場者。全道7会場で3万5千人の入場者。収益金を花巻の?宮沢賢治記念会に寄付。
51
1976
62
草野心平を帯広に招き、宮沢賢治についての講演会開催
農業友好訪中団団長として中国東北部の農業を視察
52
2
1977
63
帯広圏都市計画公園変更計画決定(面積402.2ha)
53
1978
64
『万葉僧仙覚と猿尾氏』木呂子家史話第二輯
54
4
1979
65
「八重山地域の振興を考える」『地域開発』4月号
中札内農協に依頼され編集した『中札内農協くみあい30年の歩み』刊行
55
1980
66
宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会『還らぬ岬の人々』刊行
56
3
1981
67
新帯広空港供用開始(滑走路2,000m)ジェット化実現
東ドイツ農業視察団の団長として東ドイツの農業を視察
10
石勝線開業
57
1982
68
アメリカ飼料穀物協会主催のアメリカ農業視察団に参加
8
ナホトカへの小樽市民の船に参加。シベリア抑留後帰還して以来初めてソ連訪問。沿海州ナホトカ、ハバロフスク、イルクーツクを訪問。出国時にナホトカ税関でスーツケースを開けられ、日本人墓地で拾い集めた小石を「国内の宝石を国外に持出すことを禁止」を理由※41に没収される。
抑留経験から腹巻に隠した石は無事で宗谷岬の平和記念碑建立の際、その土中に埋めた。
『弱肉強食の論理から棲み分けの論理へ』
58
1983
69
『アメリカ農業の沿革を考える』
『農民なくして食べ物なし』
59
1984
70
『宮沢賢治の卒業研究』
60
1985
71
『柳田国男・北海道の旅を追って(上)』
11
新帯広空港滑走路2,500mに拡張
12
『本の窓』での野坂昭如の対談で富山和子が水を得るため阿蘇山麓を植林したとの話に触発され、阿蘇山麓の七滝村(現御船町)の吉牟田国有林を現地踏査する。
61
1
1986
72
独言独語No33(1000字の年頭挨拶)で富山和子が書いた吉牟田国有林を現地踏査したことを書く。
10
宗谷岬に宗谷重砲兵連隊宗谷会の平和記念碑建立。 碑の裏面は宮沢賢治の文語詩 宗谷(二)の一節「はだれに暗く緑する 宗谷岬のたゝずみと 北はま蒼にうち睡る サガレン島の東尾や」 (東大寺長老 清水公照 書)
62
1987
73
富山和子が独言独語を採り上げ、NHKの朝の時間に全国放送される。
7
富山和子が著書『日本再発見水の旅』にNHKの放送内容を「阿蘇の水を作る話」として収録する。
63
1988
74
『柳田国男・北海道の旅を追って(中)』
『柳田国男・北海道の旅を追って(下)』
平成
1
8
1989
75
江戸時代から水を作るため阿蘇山麓を植林した歴史を『森が土を作り水を作る』(旭川大学地域研究所年報12号)と題しまとめる。
2
1990
76
『水耕の思想の土壌肥料学から地球に優しい土壌肥料学へ』
3
1991
77
4
1992
78
『流転人生ー私の中の歴史』(北海道新聞に連載)
5
1993
79
法華寺に依頼された『大正山法華寺史』刊行
6
1994
80
帯広在住の木呂子敏彦に係わった方々を中心に木呂子塾が始まる
7
1995
81
8
1996
82
宮沢賢治生誕100年祭記念宮沢賢治釧路セミナー「いま賢治なのか」パネリストとなる。
8
賢治生誕100年祭花巻の宮沢清六(賢治の実弟、当時92歳)宅を訪問
9
1997
83
10
5
1998
84
第 1回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
作間勝彦、佐藤隆則が幹事。
6
第 2回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
7
帯広畜産大学非常勤講師
8
第 3回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
9
第 4回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
11
第 5回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
12
第 6回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
11
1
1999
第 7回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
2
第 8回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
3
85
第 9回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
5
第10回木呂子塾(木呂子貝塚発掘の会)(帯広百年記念館)
6
第 1回移動大学(浜頓別・ハザカプラント、標津・興農塾、遠軽・北海道家庭学校) 
7
帯広畜産大学非常勤講師集中講義
第11回木呂子塾(帯広百年記念館)
8
シベリアハバロフスク遺骨収集墓参団に参加
第12回木呂子塾(帯広百年記念館)
10
第13回木呂子塾(帯広百年記念館)
11
大津シンポジウム講師
12
第14回木呂子塾(帯広百年記念館)
12
1
2000
第15回木呂子塾(帯広百年記念館)
2
第16回木呂子塾(帯広百年記念館)
3
86
第17回木呂子塾(帯広百年記念館)
4
第18回木呂子塾(帯広百年記念館)
第19回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
7
帯広畜産大学非常勤講師
エラブカ仏開帳( 5日~10日 大然寺   )
シベリア抑留展(12日~16日 十勝プラザ)
8
宮沢賢治学会ほべつセミナー
第20回木呂子塾・博物館講座(帯広百年記念館)
9
第2回移動大学(平取・萱野茂二風谷アイヌ資料館、苫小牧・北大演習林、穂別・賢治観音)
10
第21回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
11
第22回木呂子塾・浦幌町立博物館講演会(浦幌町立博物館)
12
第23回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
13
1
2001
第24回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
2
第25回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
3
87
第26回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
4
第27回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
6
宮沢清六没(享年97歳)
第28回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
7
第3回移動大学(旭川斎藤牧場、増毛本間酒造)
8
第29回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
9
第30回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
10
第31回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
12
第32回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
14
2
2002
第33回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
3
88
談山神社、保田與重郎生家、橿原八木の谷三山宅、十津川郷、新宮の佐藤春夫記念館、龍神温泉、高野山を訪ねる。
4
第34回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
6
第35回木呂子塾(帯広市民農園サラダ館)
7
第36回木呂子塾少食の会・十勝健康合宿(7日~13日 水光園・迎賓閣)
散歩中に転倒入院(23日~8月13日)
11
下田北高校修学旅行生を依田勉三徳源地に案内
12
金子智一没享年89歳
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『木呂子敏彦著作集鳥の眼・みみずの目』刊行
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小樽から舞鶴までフェリーで旅し、引揚者記念館を見学後、京都八瀬の秋元神社、清滝の保田与重郎の身余堂、建仁寺、曼樹院を訪ねる。
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木呂子敏彦没。享年92歳

年譜注釈
( 1)西田彰三(にしだ しょうぞう)1882~1949
  母喬の兄。西田彰三は北海道師範学校卒業後、東北帝国大学農科大学植物学教室の宮部金吾教授の助手となる。札幌博物学会(会長宮部金吾)会報に、後方羊蹄山(マツカリヌプリ)の植物分布、夕張山脈の植物分布についての論文を寄稿。大正7年2月小樽高等商業学校講師、大正9年10月商品学教授になる。庭にコンニャクを植え、コンニャク博士の異名があった。
  昭和18年6月退官。コンニャク糊の研究で陸軍登戸研究所の風船爆弾製造に協力した。気球本体は和紙をコンニャク糊で接着させ製造したもので、偏西風を利用してアメリカ大陸に1,000個位が到達した。
  なお、大正13年(1924年)、伊藤整が小樽高商在学中に同人誌を発行する資金を稼ぐため、高商の中で商品学の実習用に製造された石鹸が地元では高商石鹸として評判が高いことから、石鹸を仕入れるため、工場の責任者である西田教授に会い許可をもらったと『若き詩人の肖像』に書いている。
  違星北斗との論争は昭和2年(1927年)となる。10月に発見された余市の旧フゴッぺ遺跡について小樽新聞に「フゴッぺの古代文字」を寄稿し、12月には5回「再びフゴッぺ 古代文字と石偶について」として連載した。これに対し、違星北斗は、西田が「フゴッぺ遺跡はアイヌの墳墓であると結論づけたことに対して、「疑うべきーフゴッぺの遺跡」と題し、小樽新聞紙上でフゴッぺ遺跡はアイヌの遺跡ではないと論証して反論した。

( 2)栃内曽次郎(とちない そじろう) 1866~1932
 海軍大将、第一艦隊司令長官。小樽港に停泊した第一艦隊旗艦にも乗船させてもらい、栃内大将に抱き上げられた。後年、帯広空港開設の折衝のため運輸省航空局を訪れた際、当時の栃内一彦航空局長に、「私は貴方より先にお父さんに抱き上げられた」と語ったと話をしていたが、実際には、栃内大将は伯父であった。因みに栃内大将の子息栃内吉彦は、北海道帝国大学教授、農学部付属植物園園長、日本植物病理学会会長を歴任。海軍大将山屋他人が西田の妻の実家大萱生家から出ており、その縁で西田宅訪問になったと理解していたが、栃内海軍大将の子息が宮部金吾の植物学教室の居たことが大きな理由だったと思われる。

( 3)上出松太郎(かみで まつたろう)1900~1990 

( 4)賀川豊彦(かがわ とよひこ)1888~1960

( 5)後藤静香(ごとう せいこう) 1884~1960 

( 6)二ペソツ山初登頂
  二ペソツ山については、何度も挑戦し、昭和5年6月に初めて登頂することができた。昭和6年の『北海道の山岳(登山案内)』では音更側からの尾根縦走ルートは昭和5年秋に開発されたとされているため、本人談では、6月に初登頂しているので自分が音更側の尾根縦走ルートの初登頂者であると自負していた。
「二ペソツ山(2,012.7m)
十勝国 
二ペソツ山は、石狩岳南方の国境尾根から南に続く支脈の上にあり、標高は石狩岳より少々高い。石狩岳よりは、その東面の崖を裸出した頂が南方眉間の間に見え、十勝連峰よりは、十勝川の広い渓谷を距てて、その豪快な山頂が眺められる。頂上の東面はかなり広い範囲にがれた崖を作り、頂上の西面は草の、比較的な急な斜面が拡がっている。
  然るにホロカ川側はその崖を除けば、澤そのものは概して緩やかで、かえって十勝川側に急峻に這い上がった澤が多く、その中には小瀑の相次いで架かっている澤がある。音更側から登って主稜に取り付こうとする辺から眺めると、ニペソツ山の頂上は、その北方の天狗岳(独立標高1876m)の円頂と重なって恰も一つの山頂の如く見え、非常に立派である。
  頂上付近は矮いミヤマハンノキと偃松が、敷きつめた御花畑の中に散点としているのみで歩き好いが、一帯の尾根は根曲笹と大きな偃松の足の踏み入れる所もない程の密生であるから全然尾根縦走はできない。尾根縦走をするにはそれ故に積雪期に俟たねばならない。昭和5年秋ホロカ川側から頂上まで登山路が完成され、もはや澤歩きは必要なく、登山は易々たるものとなった。
  上士幌を出発点とするのが最も便利である。今その日程を掲げると
第一日 上士幌よりユウンナイ温泉に至る
第二日 六ノ澤合流点に露営
第三日 二ペソツ頂上に登り、再び露営地に引き返す
第四日 ユウンナイ温泉に戻る
第五日 上士幌に戻る。
―P103~104―
『北海道の山岳(登山案内)晴林堂版』(発行所)晴林堂 昭和6年8月再版発行

( 7)凶作(昭和6年、7年の北海道の冷害、凶作 )
昭和6年  冷害

昭和6年10月に就任したばかりの佐上長官は「北海道凶作救済会」を組織し、罹災者の救済に敏速な処置をとった。
昭和7年 冷害
6月末に道東、道北に晩霜が襲い、麦、馬鈴薯を除き全滅。7月は更に天候不順で、十勝、網走に雹が降り、病害虫が発生し凶作。

( 8)金子智一(かねこ ともかず) 1914~2002

『金子智一から元気を受け継ぐ本』金子智一追悼集刊行会編 P114~116
「金子信雄以来の友情」 木呂子敏彦(北海道)
「僕の知っている金子はまだ信雄を名乗っている時代です。お互いに18歳でした。昭和7年日本青年館から熊谷辰次郎が主幹の雑誌『青年』に「手紙の友会」という全国的に地域・職業を異にした同一年齢の仲間が、5人1組で手紙のやりとりをしようとする企画。金子はその仲間の一人。
  その頃金子は京都の田中智学の令息里見岸雄の研究所に在籍。金子から送られてきたのは田辺元の『哲学研究』という随分難しい雑誌。田辺は科学と常識の間を書いていてニュートンに始まる目で見える巨視的空間の古典物理学のほかに量子力学という新物理学、肉眼で視ることが出来ない微視的世界のあることを教えられた。
  唯物論か唯心論かといった青年らしい思索の苦悩を味わっている時に、排中律を食い破る新しい物理学的世界像があることを教えられ、決定論、終末論の壁に陥っていた時ですから、もっと自由に物を考えることができるようになったことは、何といっても金子から受けた最初最大の恩恵でした。
  後に中河与一の「偶然論」という本も金子から送られました。昭和13年、私は北海道庁を辞して上京、上野駅前のソバ屋の2階で、既に上京していた金子とその友人達を交えて歓迎会を開いてもらったが、実は初対面なのです。
  手紙の友というものは不思議なもので、文通だけで既に百年の知己のような出会いでした。爽快誠実というのが金子の人柄でした。このことは生涯変わりませんでした。
  間もなく金子の首唱で、倉田百三先生を師に「生きんとての会」がはじまりました。驚いたことに先生が『出家とその弟子』を著したのは大正5年でしょう。先生は、僕の親父より若々しく見えました。まさにパスカルの「真理を求める者は常に若い」でした。この会で有益な友人を与えられました。
  金子は尾崎士郎夫妻の媒酌で庄司きみと結ばれました。金子の新居は新宿に近い百人町でした。僕も1ヵ月おいて結婚しました。百人町近くに戸塚原の射撃壕があり、その土手の上に登って、共に「妻をめとらば」の鉄幹の詩を歌った事を思い出します。昭和16年8月、僕は北方警備のため応召。金子も翌年陸軍報道班員としてインドネシアに動員されます。敗戦後、僕は樺太からシベリア抑留の身になりました。
  昭和22年ボルガ河の支流カマ河の畔、ボロショイボール(大森林)というところで正月早々から樹齢200年というピョートル大帝が船舶用材のため造林した5千ヘクタールの欧州赤松の伐採労働に従事していました。
  初秋の頃です。俘虜郵便といって浦塩斯徳郵便局経由の往復ハガキでなくて、ジュネーブの国際赤十字経由の富士山を写した美しいカラ―絵葉書が、金子から届いたのです。
こんな事は私唯一人なものですから、収容所の中で大きな話題になりました。さすが報道班員です。大感激でした。このハガキを受け取って12月、私もナホトカから復員しました。 
  金子とは70年の交友です。「当初の僚友、逝きてとどまることなし」とは藤原定家の明月記のコトバですが、何れまた会う日のあることを信じています」

( 9)十勝農学校研究科 1934~1940
  十勝農学校研究科は、昭和6年に北海道長官に就任した佐上信一長官の肝いりで、連年の凶作に北海道の農業を水田不適な土地でも米作に依存する農業から寒地農業の確立(酪農、畑作主体)に向け努力し、農業教育の現場の刷新を企図して設立されたものである。
  昭和9年、十勝農学校は農業を自営する者や農業関係職種に就職している者に対して、勤労実習本位の再教育を施し、地方の経営に即した農業経営の知識技能を体得させるために、研究科(昭和9年4月~昭和15年3月)を設けた。
  この研究科は、農業自営者のための「農業経営部」、農会および畜産組合の職員たちのために、「農会および畜産組合部」、産業組合の職員たちのために「産業組合部」の三部門を設けており、入学資格は中学校または農業学校卒業後2年以上の実務経験者としている。教育課程は、当初は必ずしも固定したものがなかったといわれ、研究科生徒自身が経験の交流の中に、十勝農業の将来を模索するといったかたちをとったという。

(10)佐上信一(さがみ しんいち) 1882~1943
  広島県生まれ。東京帝国大学卒業後、内務省に入り、若槻内閣時代に岡山県知事となる。長崎県知事などを経て、昭和6年10月~11年4月まで北海道庁第21代長官。在任中、凶作、水害、凾館大火など天災が相次ぎ「凶作長官」と呼ばれた。しかし、主畜農業5ヶ年計画をたてるなど農業の建て直しに努力、また北海道の気候風土に適した甜菜、酪農への転換を提唱。根釧原野開発に貢献し、別海町では酪農の父として敬愛され胸像が建てられている。
根釧原野開発5カ年計画
「根釧原野農村の更生策は酪農による主畜経営としなければ冷害凶作の克服は不可能」という黒沢酉蔵ら酪連の献策を受け、「根釧原野主畜農業5ヵ年計画」を策定、昭和8年から実施。
(ⅰ)根釧原野にとどまる意志のないものには離農補助金と汽車賃を与え、農業を続けたいがよそへ移りたいとういう者も対象とし、道央、樺太に移住した者もいる。入植者6千戸の半分の3千戸が現地に残る大手術をした。
(ⅱ)土地も従来の入植農家1戸あたりは主穀農業で5~10町歩であったが、最低15町歩の土地を与えた
(ⅲ)1ヵ年5,6百頭の牛を道庁が現地に入れる。
1頭100円。80円は補助金、農家負担は20円(負担出来ない農家は酪連が手伝う)
(ⅳ)牛乳の受け入れは、酪連が全量受け入れ。
(ⅴ)酪農指導、酪農未経験者が牛を飼育するので、餌、病気、搾乳まで一切獣医が指導。牛50頭に獣医1人の配分
(ⅵ)殖民生活の充実 開拓保健婦、医師を移民世話所に常駐させ、殖民軌道、集会所を設置。

(11)暉峻義等(てるおか ぎとう)1889~1966
  兵庫県生まれ。大正6年東京帝国大学医学部卒業。警視庁技師として細民街調査に従事。大正8年大原社会問題研究所に招かれ、八王子で紡績業の女工、乳児死亡調査に従事した。
  大正10年設置された倉敷労働科学研究所の所長に就任、労働生理学を基礎に労働者、農民、開拓民の生活と労働・栄養などを調査研究。昭和2年1月『社会衛生学』を出版。
  昭和12年1月倉敷労働科学研究所(所長暉峻義等)を解散。東京に移転して財団法人日本労働科学研究所(所長暉峻義等)を創立した。
  戦時中産業報国会理事、大政翼賛会国民運動局長となったため、公職追放の処分を受けた。解除後の昭和27年アジア産業保健会議を結成、労働科学研究所顧問となる。

(12)下村湖人(しもむら こじん)1884~1955
  教育家、小説家。佐賀県生まれ。本名虎六郎。旧台北高等学校校長を経て社会教育に尽力。自伝的な成長小説『次郎物語』は、その理想主義と自由主義的教育思想により多くの読者を得た。
  木呂子敏彦が「道庁学務課で北海道の青年団の事務局長をしていた頃、昭和11年夏、浴恩館・青年団講習所長の下村湖人を道北の羽幌に迎えて北海道の青年幹部講習会の講師をお願いし、その講義のしみじみと心にしみ通るような話しぶりに「これはホンモノだ」と直感。
  道庁を辞め上京後、雑誌『生活』の編集をすることになり、ちょうど雑誌『青年』に執筆中の「次郎物語」が青年団内部に及んできた軍国勢力により連載中止となり、その続編を木呂子敏彦が編集者となった『生活』に「若き建設者」として連載することになった。
  毎月原稿をもらいに湖人宅を伺うようになる。下村湖人は『生活』の編集長加藤善徳に託し岩波書店からの『次郎物語』の出版を期待されたが、半年待って駄目という話。岩波とあろうものが、この作品をとりあげないのはあまりにも商業主義と義憤を感じ出版の売り込みに歩いたが徒労に終った。
  昭和16年に応召されてから小山書店が出版を引き受け、ベストセラーとなり、映画化されることになった。朔北の陣中にあって戦塵にまみれている日に先生から感謝の手紙と映画の『次郎物語』試写会の案内を頂戴した。」と昭和50年に出版された下村湖人全集に序文を寄せている。

(13)石黒英彦(いしぐろ ひでひこ)1884~1945
  広島県生まれ。東京帝国大学卒業後、文部省入省。1919年朝鮮総督府に転じ内務局地方課長、台湾総督府内務局長、奈良県知事、岩手県知事に就任。昭和三陸地震の復興に尽力した。その後北海道長官、1940年文部次官
昭和三陸津波の対応では、以下の歌碑が残る。
・三陸津波「慰霊の歌」
「亡(なき)霊(たま)は千尋の海に/鎮もりて栄え行く代の/柱たるらむ」
・三陸津波「復興の歌」
「大津浪くぐりてめげぬ/雄心(こころ)もていざ追ひ進み/参ゐ上らまし」
・宮古市田老地区の大防潮堤
また、岩手県立六原青年道場(昭和7年設立)を設立。その目的は、県下青年男女を訓育して専ら信念と実力との啓培に努め、祖先伝来の日本精神を体現し、地方風教の作興及び地方産業の進展に盡し、新領土及び海外への発展を図り、以て本県の振興と皇国の興隆とに貢献する地方中堅人物を養成するを目的とする。
  各郡から推薦された優良青年が入場。拓務省からは満蒙武装移民候補者(満蒙開拓生)訓練を六原道場へ委嘱され、昭和16年度までに514名を満州に送り出す。
  北海道庁長官時代は、開道70周年を記念して札幌神社内に開拓神社を建立。北海道開拓の功労者37柱の御霊が祀られている。昭和13年当時は36柱、昭和29年当時の佐藤亀太郎帯広市長の請願で依田勉三が合祀され、37柱になった。また、昭和13年には支那事変戦没者合同慰霊祭も行っている
支那事変戦没者合同慰霊祭概要
一、 場   所:札幌市郊外円山公園
一、 日   時:十月二十日午前十時ヨリ
一、 英   霊:支那事変勃発以来戦没者
一、 主 祭 者:北海道庁長官     石黒英彦
一、 斎   主:官弊大社札幌神社宮司 高松四郎
一、 祭典委員長:北海道庁学務部長   高辻武郎
(北海道庁長官代理幸前社寺兵事課長)  

(14)特高警察の取調
  木呂子敏彦は何も記録に残していないが、「道庁時代に突然手紙の友で一度も会ったことのない金子智一の友人ということで特高警察の取調にあった。たまたま、金子智一が神兵隊事件の関係かなにかで取調べられた時に持っていた手帳に(手紙の友であるため)自分の住所・氏名があり、そのことから関係者として取調を受けた。金子智一には上京後上野の蕎麦屋で初めて会った」と語っている。
  昭和12年3月23日の師後藤静香からのハガキの中に「拝啓 「北海道青年」毎号拝読感謝。大兄の御苦労並々ならずと御察し申上げます。前途ある貴兄の事故(これが特高の取調を受けたことか)、ここ当分現実に根をおろし一仕事して苦しみぬき、その上にて第二の案(加藤善徳の誘いを受け上京し雑誌『生活』の編集者となる)に進まれる事」とアドバイスがあることから、師後藤静香にこの特高の取調の経緯と加藤善徳の誘いについて相談していた。
  金子智一について、実弟金子益雄(日本基督教団牧師)が『金子智一から元気を受け継ぐ本』(金子智一追悼集刊行会)で「夢を追い続ける人」として「常に夢を追い続ける人であった。智一は酒田中学時代に学友と共に「琵琶湖周航の歌」など高唱しながら夢を語り合っていた。憂国の至情にかられて京都のある研究所に住んだ。その頃から国内の有力者を求めて教えを求めた。同時に特高警察が智一の周囲につきまとい、その言動を監視されていた。」と書いている。
  金子智一は昭和12年春に影山正治らの維新塾と日本主義文化同盟の設立準備を進めていた。影山正治は昭和8年の神兵隊事件で大日本生産党青年部長として検挙され2年間勾留され出獄していた。昭和11年9月にも不穏計画ありと事実無根の風評により神兵隊事件関係者を中心に検挙された。釈放されたものの、影山らは不当検挙として抗議を行っていた。特高警察は影山らと当時行動を共にしていた金子の動きに対し取調を行ったと思われる。

(15)加藤善徳(かとう よしのり)1907~1987
  明治40年(1907)福島県生まれ。福島師範学校卒業後、劇作家を志し上京。東洋大学在学中に岸田國士の弟子となる。後藤静香の希望社運動に参加。希望社解散により田沢義輔の書生となり、主宰する新政社の雑誌の編集に携わる。
  雑誌の原稿をもらいに毎月下村湖人宅を訪問、下村湖人を終生の師と仰ぐ関係となる。昭和10年(1935)に農村生活指導者山下信義に従い、佐藤新興生活館の創立に参加、『新興生活』の編集者、『生活』の編集長となる。下村湖人に『次郎物語』の出版を託される。昭和16年秋、後藤静香に盲人図書館設立一周年の記念会で図書館長本間一夫を紹介され、以来本間一夫の盲人図書館事業の女房役となる。戦後も財団法人佐藤新興生活館の後身、財団法人日本生活協会に勤め、昭和28年(1953)からは社会福祉法人日本盲人図書館専務理事。

(16)月刊誌『生活』編集部
  東京駿河台にあった財団法人佐藤新興生活館(旧山の上ホテル建物)が発行した月刊誌『生活』、編集長は加藤善徳。当初月刊誌の題名は『新興生活』。

(17)『次郎物語』出版経緯
  木呂子敏彦の応召後に小山書店から『次郎物語』が出版され、映画化される。戦後高山書店店主の妻が経営する池田書店から『下村湖人全集』が出版される。

(18)「生きんとての会」1939~1944
  第2回から佐藤新興生活館が例会会場となり、「生きんとての会」幹事となる。妻となる佐藤セツも参加。折口信夫の弟子で保田與重郎を師と仰いだ山川弘至も参加。木呂子敏彦の遺品の会報からは、途中倉田百三が病臥に伏した後も継続、昭和16年9月まで23号の「生きんとての」会報を発行、25号からは、『銀嶺』との雑誌名で会報を発行、昭和18年2月12日師倉田百三逝去後、3月の32号の倉田百三追悼号、その後も多摩墓地の倉田百三墓所の石灯籠一対を一周忌にあわせ献納、昭和19年3月の3月・4月合併号の43号迄発行している。会の会場は佐藤新興生活館が海軍に接収された後は、小石川傳通院会館で行われた。

(19)「イエスの友」夏期修養会
  賀川豊彦が主宰する「イエスの友」が昭和14年7月奈良県桜井市多武峰観光ホテルで開催した皇紀二千六百年、新川伝道三十年、イエス友の会二十年記念の「イエスの友夏期修養会及び全国大会」に佐藤セツとともに参加。この時佐藤セツは、不動の滝で賀川豊彦から洗礼を受ける。八木町の谷三山の末裔谷孫兵衛家を訪ねる。

(20)第1回東京宮沢賢治研究会
  この会は昭和15年5月23日に開催された。中島健蔵、谷川徹三、増谷文雄も参加し賢治研究を目的にしていた。(その座談会の速記録が1977年に『ユリイカ』臨時増刊総特集「宮澤賢治」に掲載されている)

(21)宮沢賢治遺言の『法華経』
  法華経の裏表紙に「謹呈 木呂子敏彦様 昭和十五年八月五日順九拾八号」とある。

(22)宗谷要塞重砲兵連隊西能登呂要塞(樺太白主)
  樺太側の西能登呂要塞は地下壕化されず、砲台は?き出しで空爆には無力であった。ポーツマス条約第9条で、「日本国及露西亜国ハ薩哈嗹(=サハリン島)又ハ其ノ附近ノ島嶼二於ケル各自ノ領地内ニ堡塁其ノ他之ニ類スル軍事上工作物ヲ築造セザルコトニ互ニ同意スルは又両国ハ各宗谷海峡及韃靼(=タタール)海峡ノ自由航海ヲ防礙(=妨害)スルコトアルヘキ何等ノ軍事上措置ヲ執ラサルコトヲ約ス」と規定され、宗谷海峡は軍事上重要な海峡であるのにかかわらず本格的要塞の築城が出来なかった。
  宗谷要塞重砲兵連隊は編成改変により大隊が廃止され、6個中隊が4個中隊に縮小。西能登呂要塞は第2中隊のみの配備となった。高野章一大尉(陸士53期)が第2中隊長に補職される。

(23)信濃丸事件
  着任3日目にアメリカの潜水艦が信濃丸という御用船(民間船を徴用した特設艦船)を攻撃した。大砲を冷さず真夜中に打ちっ放しの威嚇射撃をして、ようやく撃沈を免れた。砲身が熱で焼けて曲がってしまった。信濃丸は、日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を最初に発見、「敵艦見ユ」と打電した艦。当時は表向き蟹工船として使用され、実際は千島列島に展開した陸軍への物資補給を担当していた。要塞は秘匿基地のため応戦できなかった。3日間もどこに潜水艦が潜んでいるのかわからず、警戒態勢の配置についたまま。そうすると、食料はない、水はないから飯は炊けない、口にするのは乾パンだけ。糧食は稚内から16tの小さな船で運んでくる。時化たら運航休止になり、その野菜がそのままが岸壁に置かれたまま。大根なんか届いた時にはスが入って、沢庵なんかになりっこない。それで、こんなことをやっていては駄目だというので、水の問題を解決して、畑の計画を俺がたてると宣言した。
  調べたらね、風呂に入れないわけです。川から汲む水だから。顔を洗う。洗濯。だからシラミだらけ。洗濯できないから。1.5km離れた川から汲んでくる。冬に歩けばどうにもならないでしょう。雪と氷ですから。陸軍省には築城本部がある。その連中は3年かけて、馬鹿な話、最後に水の問題を井戸で解決して帰っちゃうわけですよ。その後も井戸で間に合うのだという姿勢。だから水汲み要員というのは兵力として計算されていない格好になる。いつもそれだけの兵員はいない。川と陣地とは20mの高低差がある。汲んであげてくる間に冬はあっちこっちに氷雪の壁があって、ぶつかっている間に汲んだ水が三分の一くらいになる。川が流れているから必ず上流には水源があるんだ。なんで水源を考えないのだと。丁度陣地の下の方から手で汲んで、それをポンプで押し上げているわけだから。それを兵舎の近くの貯水槽に入れるわけ。この高低差が4mある。水利学の本を読んだら1,000mに1mの高低差があれば、水は流れることになっている。4mあるから絶対に流れることになっている。水道管がない。そこで考えたのが幅6寸の板で三角樋をつくったわけ。山から木を伐って製材しまして、粘土を流すとたまっていくわけです。水漏れといったらそこだけ押さえれば良い。曲がり角は四角い枡を作って木型でつめて、粘土で固めて。下の井戸に落とす。ポンプがあるわけだから、水は上にあがってきます。しかも下の貯水槽には勝手に水が流れ落ちてくるわけだから。そうすると、毎日風呂に入れる。毎日洗濯ができる。従来の風呂を沸かした窯をはずして、もっと良い窯を入れて。古い窯には製材工場から出る端材を燃料にしていつでもお湯が沸いている格好にしたのです。お湯で顔も洗える、洗濯もできる。
  しまいには船を造ろうということになった。3tのチャッカー船を造ってしまう。ガソリンエンジンを動力の、ガソリンは内幌からもらってくる。内幌炭鉱で満州式の人造石油をつくっていたのをドラム缶で運んでくるわけです。この船を使って例えば鰊が群れ来るでしょう。磯舟で網を回している間にチャッカー船だったら網を捲けますからね。あとはぱーっと引けば良いんですから。オショロコマも捕れたのです。4年に一度産卵のために樺太に来るのです。海を飛んでくるわけです。だいたい11月頃、双眼鏡で見ているのですよ。引き網法。網張って引き上げた。100石位捕れる。食べきれないのです。オショロコマの眼を熊笹で通して兵舎の中に干すためにかけておく。昼間から、魚で兵舎の中は真っ暗ですよ。魚食べ放題で、皆下痢してしまう。身がピンク色しておいしいのですよ。
   P72、P75、P76「木呂子敏彦先生に聞く(1995.3.11)

(24)保田與重郎葉書1
  1942.12.3 樺太白主郵便函第101号  木呂子 敏彦 殿
            東京都淀橋区上落合2ノ834 保田 與重郎
  おたより忝く存じました。寒さの折からご自愛を祈ります。北方の凛烈の詩句にあなたと同様心から味わいました。怒涛の姿という一句も大いにわが雄心をうちました。
  しかし、小生は秋冷と共に参りました。
  例年の如くですから厳寒になれば、よくなります。

(25)自活部隊
  自分の持っていたノウハウ、考えてきたことを、農業でも畜産でもやった。
  軍隊というのはおもしろい。自分の持っている頭のたくわえを随分はたくことができたから。畑を15町歩、乳牛8頭、豚30頭、綿羊、ウサギ(愛玩用)、基本は養豚、乳牛。畑は馬鈴薯と大根、沖積土は野菜。ほうれん草は、マンモスという品種、私自身も吃驚したが、腰までくるのです。トウがたたない(つぼみが出たり花が咲いたりして、固くならない)。豚の糞の堆肥を30cm、その上に2cmの川土(沖積土)、そこにほうれん草の種をばら撒く。軽く覆土して終わりです。あとは間引きし、石灰でPH調整する。余ってしまって稚内に船で送ってやった。樺太から野菜が来たというので、稚内では吃驚した。誰がやったのかって。
  農業は翌年1943年からやります。海岸にあがる昆布やら蟹の殻や海老とか塵を冬の間に馬橇で畑に引っ張り入れて撒くわけです。雪解けと同時に塩が抜けます。それを2頭曳きのプラウで畑おこしをする。その後に、海岸に打ち上げられる流木を燃料に昆布だとか塵をのせて、灰をつくる。ミネラルが一杯入った肥料になる。芋をつくるとあっという間に50俵とれるようになった。海の塵による物質循環をその時覚えた。それを豊原の気象台にいた北大農学部始まって以来の天才といわれた田澤さんに話したらお前には吃驚を超えた、立派だと農学博士に誉められた。大根もよく採れた。大根を北海道に送った記憶はないが、とにかく沢庵にしたりした。それから笹の実を50~60俵保有していた。発酵しやすく、熱を持ちやすい。鰊をフィッシュミールにして200石くらい保有していたので、笹の実と50:50にしてパンを焼いておく。2、3ヶ月貯蔵しておける。魚の脂肪で甘味がつき、カルシウムなど栄養満点の贅沢なパンができてしまう。
笹の花が咲くと色が変わるのです。皆軍手をはかせて、カマスを持ってしごくわけです。一列に兵隊を並ばせておいて、150人以上動員してワーッと一斉にしごく。途端に一遍に原料が出来てしまう。本斗まで送って、粉にして積んでおいたら手がやけどするくらい熱くなる。いざというときに困らないようにしておこう、ラバウルと同じだと。延縄30枚持っていたから朝からカジカや青ゾイがかかる。刺身を食べさせる。本当は軍隊生食禁止だけれども、刺身を食べさせる。毎日牛乳を飲ませる日本で一番贅沢な部隊ではなかったかと自負している。
  ラバウルの情報を我々は持っていた。だから、ひとつラバウルのように自活して、人様に迷惑をかけないで我々は生き延びようと。例えば樺太に45万人の市民がいるわけだから、民衆からものをとりあげたり、民衆の懐に手を突っ込んだりしない。また、陸軍省の予算を使うわけでないから、自らの汗でつくっていくわけですから、そういう贅沢は人に迷惑をかけない贅沢ですから。兵隊というのは面白いもので、漁師に魚捕りをやらせると階級に関係ないのです。階級が下でも、お前親方だぞと指名されれば漁業部隊の部隊長ですからね。その人の言うことを聞かなければ絶対魚が捕れないのだから。やっぱり漁師出身の兵隊は、海をみて潮の流れだとか、どこで延縄を落とすとか、いつ引き上げたら良いかわかっている。星一つでも部隊長。軍曹がこき使われるわけ。おまけに敗戦の年は鮭鱒の定置網漁をやろうと気持ちがだんだん大きくなってきた。そうすると鮪がかかってくる。皆船に慣れて漁の仕方にも熟練してきた。日高で炭焼きをやっていた兵隊は炭場を2つつくって炭焼き部隊をつくる
 P71、P77、P79,P80「木呂子敏彦先生に聞く(1995.3.11)

(26)保田與重郎葉書2
  1943.2.1 樺太白主郵便函 第101号  木呂子 景楠 殿
           東京都淀橋区上落合2ノ834   保田 與重郎
  おはがき忝く候、厳寒の御営の間 感動に耐えず候、靭かくる歌は雑誌にのったもの第四句間違っていますな。左の如く訂正下され度、
「靭かくる 伴の雄ひろき 大伴に 國 榮えむと 月は照るらし」。
  感極まって落涙されたとの由、さもあるべしと存ずる名歌に候

(27)陸海空の対潜立体戦闘
  昭和18年10月11日海峡に跋扈していた米国潜水艦を海峡中央部に設置した水中聴音機が潜航音を感知、宗谷、西能登呂要塞から初めて85発の砲弾を打つが撃沈できず。稚内大沼の水偵が哨戒中に潜水艦を発見、10トン爆弾を投下、両要塞砲台からも射撃開始。陸海空協同対潜戦闘により潜水艦「ワフー」を撃沈。明治以来日本で唯一対潜戦闘を実施した要塞部隊となった。大沼の水偵部隊に用地を提供していた西岡牧場の牧場主がお祝いに牧場の牛一頭を屠り部隊に供したと子息の西岡一氏が語っている。

(28)保田與重郎宅訪問
  昭和20年3月10日の東京空襲直後、松戸陸軍工兵学校で塹壕築城術、中野陸軍学校で遊撃戦術を将校学生として受講。妻も妻の妹の出産手伝いのため疎開先の北海道から上京。下落合の妹の家に立ち寄り、藁縄で通し束ねた干鰈を手土産に病臥にあった保田與重郎宅を訪問した。昭和21年7月シベリア抑留中のラーゲリで、浅野晃が高橋渡に宛てた葉書で、訪問翌日に保田與重郎も召集を受け中国本土の戦線に送られたのを知り驚くことになる。
  樺太に帰る時には、東京大空襲で落された不発弾、油脂爆弾3発とテルミット爆弾3発の信管を抜いて新聞紙に包み座席の下に入れて樺太まで持ち帰って、樺太でそれを使って実演してみせた。テルミット爆弾は爆発するもの、油脂爆弾は火事を起こす。テルミットは6角形みたいな格好していて重い。当たったら当たっただけやられる。爆発して油に火が付く。油脂爆弾が広がる。
   P87「木呂子敏彦先生に聞く(1995.3.11)

(29)要塞地下壕化工事
  4月中旬になって、ラバウルみたいに大砲を地下に築城しろっていうことになった。それで豊原に出て資材計画をたてて、計画表をもって大津樺太庁長官のところに押し掛けていった。というのも、前年に大津長官が私の所(西能登呂)に来ているのだ。一晩泊めてご馳走しているのだよ。知らない他人ではない。
  だから、札幌に出掛けていって留守だったので、4日間待って、会ってお願いして、部長会議を開いて貰って私の言うとおり資材を揃えて西能登呂に送ったわけです。
  傑作だったのは土木をやった連中でも、お前それ本当かと聞かれるのですが、彼等は俺らだったら絶対考えもつかないと。落合炭坑の5t機関車、炭車、レール等鉄道資材を本斗まで鉄道で運び、本斗から100t艀7隻により日魯沢河口につくった約100mの浮桟橋に揚陸した。また地下陣地の堀開で生じる土砂は、約500mの急勾配をつけた複線軌条(内幌炭鉱から借用)を敷き、導索の上下両端に炭車5両づつを連結、滑車の原理を応用して無動力による排土処理を行う画期的なものだった。さらに旭川から要塞をコンクリートで固めるためタワーとミキサーを持ってきた。生コンをつくって要塞構築を迅速に進めようとした。電気もないと出来ないので、たまたま白主に使われなくなったディーゼル発電機があったので全部配線し直し動かした。我ながら、えらいことをやっちゃったなあと思う。この要塞の砲台の移設・掩蔽工事に歩兵の1個大隊が応援にきた。
  階級には関係ないんだ。私の指示がなかったら、歩兵の連中は絶対に動けないのだ。その時は中隊付の小隊長だったが、計画をたてたのは自分だから、大隊長の少佐もこっちに任せっきり。良きに計らってくださいと。大隊はそのために来たわけだし、こっちがご馳走を食わしているのだから。冗談じゃない。朝から刺身食べたり、昆布敷いて鱈鍋、材料はこっちから供給するのだから。
   P80、P81「木呂子敏彦先生に聞く(1995.3.11)

(30)中隊長交替
  昭和20年7月 高野中隊長は少佐に昇任。宗谷要塞重砲兵連隊本部班長として稚内に転任。後任は、内田久雄大尉(陸士56)が着任した。

(31)海豹島電深施設米潜水艦ロケット攻撃
  昭和20年4月から、海軍宗谷防備隊が樺太の北知床岬沖の海豹島に米国潜水艦探知を目的に電深施設を建設していたが、7月2日突然湾内に浮上した米国潜水艦バーブ号によりロケット攻撃を受け施設は完全に破壊された。電深部隊3名がこの攻撃で死亡、所長幸田朗中尉等は孤立し、ようやく4日後救出され稚内に戻る。

(32)幸田中尉自決事件
  昭和20年8月18日に直ちに攻めて来るソ連に幸田朗海軍中尉が陸軍の大砲を借りて戦うと申出るが断られ、翌朝許嫁とともに自決する。海軍は、この事実を隠す。20日の宗水丸での中隊全員の稚内帰還が中止になったのは、この事件が影響していると思われる。

(33)要塞専用電話が一方的に切断される
  木呂子敏彦が稚内の宗谷要塞重砲兵連隊本部に専用電話で第二中隊全員を稚内に帰還させるよう説得し一旦は了承されたものの、その後残留指示に変わった。
  その後稚内の連隊本部が一方的に電話線を切断した。このことを戦後45年経って、元中隊長宅を訪問した際、「誰が電話線を切断したのか」と詰問するように問い質した。深い沈黙が続く中、お互い無言のまま辞去。帰途ポツリと「折角皆を帰せると思ったのに、誰が電話線を切断したのか」と溜息をつきながら語った。

(34)棄てられた部隊
  引揚援護局の内田部隊の抑留未帰還者名簿に抑留者167名を165名と誤記され、既除隊者の名簿記載や抑留者の脱漏があるなど、「棄てられた部隊」ではないかと直感、家族には「ゴタイマンゾク、ブジカエッタ」と電報を打ち、既に復員していた小樽市の井上氏宅で部下の消息を知らせる文書をつくる。年末に家族が疎開した上士幌に戻る。24年暮に166名の戦病死、帰還の区別ができたが、唯一鈴木栄君だけ消息不明のままだった。

「白主通信(しらぬしつうしん)第1号」(22年12月12日)を発行。
  白主は、西能登呂要塞のあった地名
「白主通信第2号」(23年1月20日― 白主友の会)を発行
抑留以来の心臓脚気の無理が祟り深川市の布川医院に1週間入院。連合軍から召喚により急遽退院上京、市谷駐留米軍施設でシベリアでの収容所配置図、地区番号、収容所番号等の詳細図を見せられ、その青焼を入手する。
「白主通信第3号」(23年 4月 1日― 白主友の会)を発行
「白主通信第4号」(23年 8月10日― 白主友の会)を発行
「白主通信第5号」(23年12月25日― 白主友の会)を発行
  昭和33年(1958)に、ようやく抑留された戦友のうち唯一人不明であった鈴木栄の消息が同じ収容所に居た林田氏の書簡により死亡が確認され、内田部隊全員の消息が確認できた。

(35)違星北斗(いぼし ほくと) 1902~1929

(36)二風谷小学校
  十勝沖地震(震度6、M8.2)で平取町二風谷小学校が大被害を受け、穂坂校長、貝沢正PTA会長等が北海道教育委員会に学校建物再建を陳情。
「知恵と力」を貸して欲しいとの要請に二風谷の方々に平取に居たアイヌの歌人違星北斗の遺稿にある「コタンに浴場を建てたい、希望園を造りたい」の夢を話し、風呂と水洗便所のある学校を提案。設計は帝国ホテルを設計したフランク・ロイドの弟子田上義也に頼み、和人を見返すような学校を造りましょうと話す。 
  二風谷の人が総出で手伝い、赤いとんがり帽子の時計塔のあるハイカラな校舎、風呂と水洗便所のある当時では考えられない学校に出来上がった。
「違星北斗の会」を結成し『違星北斗遺稿集』を作成し、違星北斗歌碑建設を呼びかける。

(37)光を掲げた人々
昭和30年3月6日(日)午前9:30~10:00
「光を掲げた人々」違星北斗
脚本 森本 儀一郎
音楽 西田 直道
演出 久保田 浩
配役
   違星北斗    …西國成男
   語り手と古田先生…若山弦蔵
   アイヌの男   …坂内弘治
   男の声     …山根富男
以上 札幌放送劇団
音楽 札幌放送管弦楽団
作曲指揮 西田直道

 

(38)帯広市総合計画
  帯広市は、川西・大正村との合併を契機として昭和34年(1959)に基本的都市づくりのための「第一期帯広市総合計画(十カ年計画)」を策定、38年に改訂して「帯広市新総合計画(~45年度)」となった。
  さらに、46年(1971)度から55年度までの「第二期帯広市総合計画(十カ年計画)」を策定。内陸拠点都市帯広の基礎を整備し、帯広市民の理想とする近代的田園都市を目指して“住み心地よい暮しに便利な生活環境づくり”の諸施策が計画的に進められた。この総合計画は吉村博市長(昭和30年~49年)のもと推進された。(帯広市HPから抜粋)
  当時の帯広市長吉村博は革新系市長であり、自らの市政を実現するために総合計画を立案することになった。自著で当時の事情を以下のように語っている。
「夢のある街」
◎総合計画を樹立―計画行政の具体策として
  実際に、この公約を果たす段階にいたって、まず企画室を設置するという分課条例の議決の問題で真先にひっかかり、実現までに二年もかかってしまった。
  こう考えなければならないのは、保守的な考えの強いところに革新市長が出ると、その現実に対する不満が生じて、理屈ではなく、ただむきだしな感情が感覚的に、市政全体を押しまくろうとする可能性が十分あるといことだ。
  私は、どこまでも反論には明確な数字と綿密な計画を示し、理詰めで正統性を主張する方法を地道に積み上げ、これに対処してきた。そういう経過をたどって、提案してから二年後に、ようやく企画室が陽の目をみた。もっと綿密な理論の積み上げが重なった、帯広市の将来の展望がつくりあげられていったのである。
  市民の願いをとりあげて、練り上げ、「10ヵ年総合計画」というものをつくりだした。この中で、私は、「近代的な田園都市・帯広」をつくりたいというような表現をしたわけだが、しかし、田園都市という言葉は、あまりにも清潔で、静的な響きをもっているせいか、十分に議会も市民も納得させることができないままに今日に及んでいる。
  しかし、この言葉のもつ内容や意義は、近い将来に、より良識のある人びとが十分に理解してくれるだろうと、確信している。
  総合計画は32年から昭和34年にかけてつくられており、計画が完成した年に、私はこの計画の推進を公約して、二期目に当選して以来、現在に至っている。
だから、総合計画という言葉は、かなり前からつかっていた。ところが、議会は黙殺するという方法をとり、36年になって議会で、初めて議員の中から、「市の総合計画においては」という言葉がでてきたほどである。
  国全体を眺めてみても、保守系の地盤の強いところがおおきな面積を占めている現在では、革新系市長の前途には、多くの場合、比較的強い野党勢力から極端に冷遇され、協力はしてもらえないという茨の道が横たわっていることであろう。
  そのなかから、自分の考えた市政を実現していくためには、市民に協力してもらえる体制づくりにながい時間をかけ、冷遇に耐え、しかも自分の主張を次第に浸透させていく努力の積み重ねが必要だ。
  自民党の市長でなければ駄目なら、わざわざ選挙する必要がないし、国や道に直結してきまっていることなら、市民が選んだ議員がとやかくいっても始まらないだろうといいたくなる。
 吉村博『風雪有情』1974年新時代社発行P54~P56

(39)西帯広工業団地
 国鉄帯広駅及び周辺市街地の土地利用の見直しの必要性は、
①帯広市の人口増大に伴う駅利用の旅客増に対して昭和5年改築の国鉄帯広駅駅舎が老朽化・狭隘化して、「街の玄関口」に相応しい駅舎と駅前広場の整備が必要になっていた。
  国鉄旅客の増大に伴いバス路線も駅前や駅前通の西二条通に集中し、小売商業集積の中心が従来の電信通周辺から駅前市街地に移動したため、買物客も増えてきた。
②国鉄帯広駅は貨物駅も併設され、従来鉄道輸送に頼る食品、木材製品工場、卸売機能が周囲に無計画に立地し、農産物輸送が馬車から鉄道にシフトし鉄道貨物輸送の増加する一方、卸売機能ではトラック配送輸送が増加するなど駅前の西二条通など周辺道路の交通が錯綜していた。
  まず、これらを背景に都市計画としての土地利用を見直して、国鉄帯広駅の旅客駅化と操車機能、客車・動力基地の移転により効率化・合理化を図り、バスターミナル整備により路線バスの集中緩和、更には卸売機能の卸商団地移転によるトラック交通量の緩和を図ることになった。
  ところが、国鉄と駅の客・貨分離の折衝したものの、農産物等の鉄道輸送量では国鉄の投資に見合う貨物量がないことから客・貨分離による貨物駅新設の必要性がないとの冷ややかな対応で、帯広市としてはどう新たな鉄道貨物需要を創出するかが課題となっていた。
  工業団地造成による新たな鉄道貨物輸送需要を創出するとともに、貨物駅用の5haの国鉄用地を含む、当時の帯広市の既成市街地に相当する550haの工業団地造成の必要性が生じてきたものである。即ち、国鉄用地確保は工業団地計画と不離一体のものであり、この点が他都市での工業団地造成計画とは異なるものであった。
  しかし、国鉄用地を含めた工業団地の用地取得は、国鉄のためというので大義名分がたたず、あくまでも工業用地取得が大義名分となった。また用地取得の主体についても議論がなされたが、最終的には財団法人が行うこととなった。
  財団法人帯広産業開発公社による西帯広工業団地用地取得構想の素案をまとめた段階で昭和36年に市議会の有力筋に話をもちかけたが、議会の同意を得るのが難しいことが分かった。市議会対策のために、新たに①市内の工業関係者を中心に是非入居希望事業者の組織をつくって工業団地造成の気運を早急に醸成する、②西帯広関係住民に工業団地開発の期成会をつくってもらい、工業団地の用地取得の協力と実現化の促進を図る、③国鉄貨物駅構想を推進するため大手企業が工業団地に進出するという気運醸成はかり、尻の重い国鉄に調査やヴィジョンづくりをさせるなどのお膳立てをすることになった。
  都市計画としての工業団地は、帯広の都市計画らしく慎重の上にも慎重さをもって計画しなければならず、その大きな理由は当時の吉村市長が「煙を吐く工場はいらぬ、工場誘致はせぬ」ということを公然と発言し、この発言を全国市長会主催の都市問題研究会の席上小川博三岩手大学教授に絶賛されたこともあり、帯広市が工業団地造成を一丸となって推進するには矛盾も孕んでいた。
  たまたま当時の日本商工会議所の岡松専務が「これからの工業開発の考え方は、緑の中に工業団地をつくるという考えに立たねばならぬ」と強く発言したことを受けて、工場嫌いの市長を納得させ、その上での計画を進めるため、「緑の工場公園」というキャッチフレーズが生まれ、ようやく工業団地の造成の目処がたつことになった。
  土地利用計画では、工業用地として造成する農地は、畑作に利用したくてもできない水田化された生産力の低い泥炭地、湿地帯を再利用することとし、建ぺい率を30%以下として緑化可能な土地利用を増やすこと、また最初から公共空間を確保し、計画的に配置する工業団地造成を心がけた。
  木呂子敏彦「西帯広工業団地」『鳥の眼、みみずの目』から抜粋

 この工業団地の評価については、昭和58年発刊の斉藤禎男著『ワイルド・ミニマムの思想』では以下のように語られている。

「土地リース」
  帯広には「吉村不動産」といったニックネームがある。こんな会社名の企業が実在するわけではない。インダストリアル・パーク、つまり緑の工場公園という大看板をかかげて西帯広工業団地(面積627㌶)を造成したり、都心部の亜麻工場跡地を買収して開広団地(同17㌶)をつくった。道路、上・下水道完備の本格団地。北大や帯広畜大のキャンパスは180㌶だから、このインダストリアル・パークはキャンパス三つ半分という広大さ。開広団地も北大植物園(同13㌶)を上回る大きさ。インダストリアル・パークは、売るスペース304㌶のうち、19㌶を残して百七十四企業と契約を終わった。
  このうち百七企業が入居したが、一方の開広団地の方は、合同庁舎、卸売団地などが入居して四十六年三月に造成を完了した。ニックネーム「吉村不動産」の由来が、これら団地づくりである。
  木呂子助役がヨーロッパ・アメリカの都市視察に出かけて、悔しがったことには、こうした都市経営としての団地づくりが背景にあった。アムステルダム、ストックホルム、ロンドン、そしてアメリカ諸都市の多くが「土地のリース」を採用していたからだ。せっかくの団地を切り売りしない。各都市は「市民の土地」として経営にあたっており、その多くが「99年の長期貸し」だった。百年から一年を差し引いた年数であり、これには、いかなる企業といえども百年は持たずに交代を繰り返すという考え方が流れている。オランダの東インド会社、イギリスの香港経営など、侵略手段として土地を確保する場合ですら「99年リース」 ヨーロッパからアメリカに入って木呂子助役は、ここでも「土地のリース」を目のあたりに見せつけられた。
  ロサンゼルスの第三セクター「キャボット・アンド・キャボット」は、建設省から日本一の緑の工場公園と折り紙がつけられた西帯広工業団地のざっと十倍六千㌶という巨大なリース工業団地。自家用機の発着するランウェイーも設備されている。「正直穴に入りたい気持ちだった。帯広が日本一のインダストリアル・パークかと思うと赤面のいたりだった。」-帯広経営の裏方を演じている木呂子助役は嘆くのだ。
  ストックホルムでは不動産投機を抑えるため大量の土地家屋を買収して市面積の三分の一の土地と九千㌶の住宅敷地は自治体が所有している。住宅団地を建設しても土地の所有権を与えず、六十年のリース契約制度を採用、土地評価額の四㌫という安い賃借料をとるにとどめている。評価額三・三平方㍍三万円の土地を九十九平方㍍借りて自宅を建てた場合でも、わずか三万六千円で足りる。
自治体が、これだけ大きな土地を所有して放出すれば、地価の騰貴を抑えることは可能だ。
  建設省から日本一のインダストリアル・パークの折り紙をつけられた西帯広工業団地。シラカバ樹木が植え込まれ、団地中央を四十八㍍の幹線道路が走る。大部分はすでに売り尽したが、三・三平方㍍あたり六千円の標準価格として試算すれば、百八十二億円にしかならない。帯広市の年間予算を多少上回る程度の値段でせっかくの市民の土地を手放したことになる。「土地リース」の思想は、まだ日本に根をおろしていない。「だからいいのだ」と考えず、くやしがるところに帯広らしさがある。北海道に都市政策として「土地のリース」が実現するのは、いつのことだろう。」
  都市計画としての土地利用の見直しを最終的に実施した結果、貨物駅が新設されたのを受け、帯広駅は旅客の民衆駅に生まれ変わり、駅前広場も整備され、帯広市の「街の玄関口」に相応しいものになった。卸売機能は帝国製麻工場跡地の開広(卸商)団地に移転し、バスターミナルビルも完成して、駅を中心とする道路交通量は緩和されるとともに、駅前周辺市街地への小売商業集積も更に高まることとなった。
  しかし、その後当時の計画では想定されなかった急速なモータリゼーション、マイカーの普及により、駅前周辺市街地の中心的な商業集積地は、集積の結果としてマイカー普及に伴う駐車場不足が顕在化し、一方では大規模小売店舗の立地規制緩和から郊外型の大きな駐車場を擁する大規模小売店舗が幹線道路沿いに立地し、結果的に駅前の既成商業集積地が衰退する結果となった。
  しかも、人口の伸びも想定した20万人の人口に届かず、人口17万人台で足踏みし、その後漸減傾向が続いている。この背景にはマイカーの普及により、帯広市内の人口が住宅取得のため地価が安い音更町、幕別町、芽室町へ移動したことに大きな理由がある。
既成の中心市街地のインナーシティ化が進み、中心市街地の人口が極端に減少しており、総合計画は、市長が交替しても継続して10ヵ年計画で進められているものの、吉村博市長時代の第1期、2期の総合計画のように将来の100年の大計にたって、帯広市の街づくりあり方を検証し、その針路を示す総合計画でなければ、このままでは他の都市の例にもれず今後30年で全く魅力のない典型的な衰退都市となってしまう兆しがある。

(40)帯広の森
  帯広の森は、吉村市長の長年の想いにある。『風雪有情』の中で以下のように述べている。
「緑の森を次代に残す。」 昭和48年
◎自分たちの街は、自分たちでつくるしかない。
  今日くらい市民が自分たちの生命を守るために積極的に発言している時代はあるまい。平和な時代であるだけに、目にみえない数多くの敵との戦いは、非常にいんさんな感じがする。そしてその戦いの輪は、日本全島をおおって、都市といわず、農村部とはいわず、日一日とその強さを発揮している。いま日本列島の隅々まで、うまい空気と緑と太陽を取り戻して、この強敵を撃滅するための手段と戦略が行われるとすれば、その戦闘手段は一体どんなものなのであろう。
  一つには「日本列島改造論」に見られるような国の力で非常に物理的な考え方の中での手段方法がある。もちろん国の施策が今日をあらしめたのであるから国自らが自らの手で処方をする責任があることはいうまでもない。しかし、その政治方向に必死に抵抗せずに、ひん死の街になるまで、これを見すごしてきた、われわれ市民の責任もゼロではない。
◎再現したい“原始の森”
  私は私たちの街は二十万人の人口に限定したいと考えている。限定された人口の街で、市民何千年も生きて行きたいと思っている。そのことを頭においてマスタープランをつくる。
その重点は当然、人間の生命の安全を最も重視した街づくりになる。それにいままでの街の様相も相当に変えなければならない点がでてくる。それは既成の街の部分に、息抜きの場所が少ないことである。すなわち、公園、緑地部分が少ないことである。
  どうしてこの広い北海道で当初、人々はこのことを考えなかったか。狭い土地に何千年も暮らした日本人の性癖が残っていたのであろう。そしてわれわれは今息抜き場所づくりに没頭している。元来、十勝平原は多く闊(広)葉樹の森林であった。特に槲の樹林が、昼なお暗いぐらいに茂っていた。それを切り開いて立派な畑はできたが、平地部分に昔の名残りの森林も巨木もみられなくなった。“原始の森”の樹齢は300年前後であった。
  これを再現したいのである。グリーンベルトにこれから200年か300年時間をかけて、うっそうたる槲の森林、楡の林をつくろうと思う。
  何代か後の市民が、この巨木の下で、いこいの一時をおくれるなら、しあわせである。さらに、これだけではなく、白樺の林、桜の園、果樹園、子供の遊び場、老人のための原っぱ、青年の体育場などを、幅550メートルのグリーンベルトに散在させる。川を引き込んで変化を持たせる。魚すくいもさせてやりたい。
  この計画を全部市民参加のもとに造成しようと思う。
◎ウイーンの森・ライヴリエの森
  かつてヨーロッパを視察した時、ウイーンの街で一週間過ごした。ご承知のように旧い街で、至るところに巨大な彫刻があった。それをよけて道路があった。
広い公園も各所にあって、小鳥が人間とともに生活していた。そしてさらに好ましかったのは、ウイーンの森のであり、その森の中の小径であった。川の両岸をいろどる花壇であった。
  パリ郊外にライヴリエの森がある。私は若い頃、羊飼いをしたことがある。
ナポレオンがスペインに勝って、スペイン王朝から、メリノの原種を戦利品としてパリに持って帰った。そしてそれを飼育したが、ライヴリエの森であった。
その記憶の森が現存していて、パリの市民は日曜に、その森の中にお弁当を持って出かけてゆく。森の木々の間から遠く近く談笑する人声を鳥の声と一緒に聞くことができた。誰もが街の近くにこんな森があったらと思うのではないだろうか。しかし思ってもすぐそう簡単にできないと思うだろう。しかし、果たして造れないものだろうか。私はそうは思わない。
  街の人びとが一致団結し、道、県民が団結し、国民がその気になったら、どんな荒地になった土地でも、赤肌にされた土地でも、放射能をかぶった土地でも、緑の復元力はやすやすと緑地回復に協力してくれるに違いない。
  日本列島改造は、まさにこうした発想を土台として思考され、計画されなければならないものではないだろうか。
吉村博『風雪有情』1974年新時代社発行P119~P130

帯広の森の評価については、昭和58年発刊の斉藤禎男著『ワイルド・ミニマムの思想』では以下のように語られている。

「ミミズの大地」
  落ち葉が大地に与える効果や土に対する保護の思想となると知恵が働かなくなる。あるいは日本人の思想構造が実利主義に出来ているのかもしれない。ドイツには国立の自然環境保護植生研究所という実際的な機関があって全国の土壌構造図を押さえている。道路建設、住宅団地の造成によって「ミミズの大地」が破壊されないようにとの配慮であり、どんな開発行為であれ大地を掘り起こす場合には、その地域の土壌構造図にしたがって土の埋め戻し作業を義務付けている。ヨーロッパ・アメリカの都市視察で土ばかり見てきた帯広市の木呂子敏彦助役はこんなドイツの土地管理を紹介したあと、「日本の学者も大勢、海外へ出ているが、どういうわけか土壌の報告は殆どない。」と不満げである。これも日本人の土に対する意識の現われかも知れない。そんな木呂子助役だから都市視察で目についた土をビニール袋に採取して歩いたが、ハワイの税関に引っかかることになり、全部捨てる破目となった。いかにも残念そうである。
  P243~P244

 「森は都市の城壁」
  森は都市の城壁だという。北海道や日本には、このような樹木を“面”としてとらえる思想はない。十勝平野の代表的なカラマツの耕地防風林などの樹木は、これまで“線”としてしか見てこなかった。札幌の姉妹都市である西ドイツの百万都市ミュンヘン。ここのイギリス庭園は、オリンピックのマラソン・コースに組み込まれテレビを通じておなじみのごとく広く、奥が深い。庭園内に二本の川が流れ、広さは最も広い部分で幅2km、長さ6kmに及んでいる。人口は66万(1970年)のフランクフルト。ここの都市林は面積5千㌶と広大である。
  帯広の森計画は、こうした思想を導入しようというトライアルであり北の都市が南の日本列島に向かって放つ新しい都市政策の第二弾である。
第一のそれは旭川市の買い物公園計画であり、これはすでに定着をみた。帯広の森は、昭和60年度を目指し、幅550㌶、延長11.5km、面積にして686㌶の森で都市の囲い込みをしようという狙いだ。
  西から東へ流れる十勝川、南から北へと流れを辿り、十勝川と合流する札内川。日高山脈を水源とする札内川は、全国的に水質のすぐれた河川として知られる。帯広は、この両河川の中洲に位置する都市であり、帯広の森は両河川を樹木の帯で結ぶことになる。計画には、二つの意図がある。一つは、フランクフルトやミュンヘンのような森の城壁建設によるレクリエーション空間の確保であり、他の一つは吉村博市長の持論である人口二十万人論との兼ね合いである。帯広の森は、いうならば緑のアウトバーンであり、市街化区域の広がりを制限する役目がある。
  フィンランドの首都ヘルシンキの街中にオリンピックスタジアムがある。札幌オリンピックの真駒内会場に相当する施設だが、このすぐ近くに野生のオオジカが生息している。
道教育大旭川分校の今村源吉教授は、「土地の人々がビルヒと呼んでいるオオシカが、ゆうゆうと人間と共存しているのですからね」と、さすがに驚いた様子。
  野生のオオシカがヘルシンキの街中まで「進出」して来るには理由がなければならない。まさかストリート・カーに乗っかってラップランドあたりから出かけてくるわけではない。それは、野生動物の生息圏からヘルシンキ市内まで森の帯が続いているからだ。耕地防風林のような“線”としての樹木が続いていても、これは野生動物の誘導には役立たない。こうしてみると、野生動物の生息エリアと市街地を森で結ぶことが、動物を都市内に誘い込む条件になっていることが分かる。
  昭和45年秋、ヨーロッパ都市視察に出かけた木呂子敏彦助役が、フランス建設相官邸にあいさつに出かけた時だった。「風が出てきたな」と思いながら官邸前庭を歩いていたら頭にコツンとぶつかったものがある。
拾ってみると、幅3cmほどの、平べったいトチの実である。見上げたらたくさんの実がついている。木呂子助役はパリに入って、都市公園に野生のリスがたくさん生息しているのに気付いたが、どうしてこんなにリスが住んでいるのか、にわかに理解しかねた。それが頭にぶつかった一個のトチの実で解けた。
パリはマロニエの街だ。マロニエはトチの木の仲間である。実が豊富になるトチの木を都市の森として作り上げたことが、リスの食糧を提供することになり、都市の中に野生リスの生息エリアを作った。「なるほど」-ここまで考えて木呂子助役は、都市政策の読みの深さといったものを感じた。
北大農学部前教授斉藤雄一さんのレポートによると、西ドイツ・フランクフルトの都市林は次のようだ。
  ライン川に並行して広がる面積五千㌶の都市林はマツ類48%、ナラ類30%
、ブナ17%、その他の構成比。このブナやナラが実をつけるころになると養豚業が行われる。平年で五~六百頭の豚が飼育される。綿羊の飼育も行われている。
森の中でこうした生産事業が進められる一方では、競技場やゴルフ場などのスポーツ施設。児童向け公園や遊ぶ施設。二㌔ごとの休養小屋、さらには飛行場も整備されている。都市林には延長二十㌔の自動車道路が走っている。これには野生動物を保護するため高さ一・八㍍のフェンスが張ってある。五千㌶のうち三千㌶が狩猟区として利用されている。
  帯広の森計画の手本の一つが、実はこのフランクフルト都市林である。斉藤さんの報告にもあるようにフランクフルト都市林は、豚肉生産の場としても活用するなど生態学の仕組みを都市林の中に取り込んでいる。帯広は、目下のところ、ここまで踏み込んでいない。市街地を森で囲い込む一方で帯広駅から三㌔と五㌔地点に南北に幅百㍍もの“緑道”であり、これを日高山脈に向けて延ばしてゆく。
  たかだか、人口十四万の地方都市が自動車をシャットアウトした幅百㍍もの“緑道”計画を打ち上げたことに対する風当たりは相当なものらしい。
  帯広の森は、事業としては昭和六十年に完了するが、大木が都市の城壁となるまでには、ざっと五十年~百年はかかる。気の長い話である。日高山脈に生息する野生動物も“緑道”を伝って街中に出てくるだろう。「リスはいいがヒグマは困るなあ」と木呂子助役は言うのだ。

 森は都市の城壁というのは、ヨーロッパの思想である。都市の四辺を囲んでいた“石の城壁”を“樹木の城壁”に変えた。帯広の森計画は、吉村市政の置き土産。それを保守の田本市政が引き継いでいる。総面積四○二・二㌶に修正され、56年度末の土地買収済みは50%の二○一㌶。植え込まれる樹木の総本数六○万本、このうち57年度末までに十五%、9万本が完了している。
  同計画は吉村博氏が辞任した49年に都市計画決定。50年に造成がスタートした。全体計画の完了は、73年、あと20年近くかかる。推定総事業費三百億円。二○一㌶の土地買収費二十四億六千百万円。
  P298~P301 斉藤禎男著『ワイルド・ミニマムの思想』
  北海タイムス社発行 昭和58年4月20日初版

(41)宝石の国外持ち出し禁止
  1982年の夏だったから、もう9年前になる。その時は小樽か姉妹都市(ロシア語では兄弟都市だが)のナホトカまで、ソ連客船オリガ・サドフスカヤ号に乗って、わずか18時間の船旅で日本海を渡ったものだった。そのあと、ナホトカから汽車でハバロフスクへ行き、そこで1泊してから今度は飛行機でイルクーツクまで飛び、バイカル湖上を遊覧した後ふたたびイルクーツクへ戻り、その日のうちにまたハバロフスクは帰るという、随分あわただしい旅行だった。このとき、ハバロフスクの税関では、往復厳しい荷物検査があって特に南千島が日本領土になっている地図を持っていた人は、文句を言わさずみんな取り上げられたことを思い出す。
  帯広市の元助役さんで、かつてシベリアに抑留されたことのある木呂子さんという人が、ハバロフスクの日本人抑留者墓地から拾ってきた石を取り上げられ、抗議したところ、書類を渡されたので訳してくれと持って来られたので読んでみると、ソ連国外に持ち出すことのできない品目として、ルーブルなどと並んで宝石類があり、そこに印がついていたのを思い出す。」
  P187「1991年ソ連極東の旅」から抜粋
  外川継男※『サビタの花―ロシア史における私の歩み』
  (発行所)成文社 2007年12月5日初版発行

 
※外川継男(とがわ つぐお)1934年東京生まれ。東京大学文学部西洋史科卒業。
北海道大学教授、上智大学教授歴任。小樽市民の船には、ソ連の専門家として同行。

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