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倉田百三と「生きんとての会」

 倉田百三との交流は、昭和14年5月に誕生した「生きんとての会」を通じてである。従前から倉田百三の著書を読んで私淑し倉田百三宅を訪問する青年達に、日本文化主義同盟の雑誌『怒涛』編集主幹金子智一の仲間が加わり発足した会である。第2回目の会合以降は、現在の山の上ホテルとなる木呂子敏彦が勤めていた佐藤新興生活館四階講堂が会場となり、木呂子敏彦も必然的にこの会の幹事となった。
 この会の運営費は、岩波書店から出版した『愛と認識の出発』の毎月の印税400円であった(当時の町村長の俸給4カ月分)。
 倉田百三の主宰した「生きんとての会」の活動についてはあまり知られておらず、文学者の立場としての活動としては評価されていない。
 倉田百三は「生きんとての会」を主宰する意義を以下のように語っている。
「生の真理の探究が物的・外面的の方向の方に偏向して、深い内面的要求がなおざりにされてきた期間が已で十数年も続きました。が、ようやく此の頃になってその要求が復活して来たことは当然と云いながら、まことに悦ぶべきことと思います。特に極く若い世代にこの要求は抜くべからざるものとなりつつあり、私の考えでは、これは次代の真摯性を示すたのもしき徴候であると思います。
 生とは何か、如何に生くべきか。いかに共存同胞とつながるべきか。いかに異性を愛すべきか。いかに生の欲望の対象の獲得のため闘うべきか。いかに祖国と民族共同体と人類ユニオンとに依属し且つ献身すべきか。モラルの究境の源泉はいづこに?幸福と何か?最高の価値―神とは何か。
 こう云った生の本質的に大切な問題に就いて考えること少なく過ぎて行くのでは「生きる」ということの精髄は抜けていると云わなければなりますまい。
 勿論、現実の日常の物的環境と取り組み、之に反応し、処理していくのではなくては「生きる」とは云えませんが、かような現実処身のための指導原理をうち樹てるためには、如上の生の重要問題をラディカルに探究せねばなるまいと思います。また文学や、国民運動の基礎も実にここになくてはならない。
 私はそうした生のラディカルな堀り下げと、それからの現実日常諸問題への反応とを共に探究する目的を以て、同志の人々と「生きんとての会」をもちたいと思うのです。生を虔しみ享け、生の欲望を愛惜し、全一的活動を祈願する同志の人々来り会されんことを熱望します。」
 さらに、「生きんとて会」会報2号に、倉田百三は「共に生きること」として、「生きることの課題は、殆ど「共に生きる(ミットレーベン)」ことの課題である。友情、恋愛、隣人への愛、協同体への愛、神とともに生きる心、人類とつながる仕事、天地の心に、自然の寂びに一つに融けて生きる態度等皆そうだ。孤独というものは此の天地自然と共に生きるという心さへ無い本当の独りぼっちならそれこそ孤独地獄とも云うべき寒冷な、生きるにたへぬものであろう。
 我々は何故集って生の真理を探究するのか。生の真理とは、「共に生きる道から」離れられないからだ。集るといふことに既に意義があるのである。独り生きることに足ってから、然る後衆の中に出て行くといふ仕方が個人主義的心理の温床なのだ。私などさういふ仕方で思索して来たため今日に至るまで、社会生活がやり難く、衆団的訓練が足りず、組織力が乏しく、公共の仕事や、ムーブメントを起すのに板に着かぬ他所行きを感じるかも知れない。自分の生だけを一度切り離して考へてから、しかる後他と、社会と全と結び付けるのは容易ではない。初めから自分の生を、共存の生として感じ、考へる生き方、考へ方をとる習慣をつけることが大事ではないか。発想法から個人主義的ではないものを新しい時代に私は求めたい。…
 衆の生活、共同体の生活に「責任をとる」生活態度をこれからの青年はとらねばならぬ。自分の「良心の責任をとる」のは勿論だが、公共の生活に責任をとらずに、安らかであるような良心そのものがすでに個人主義的なのである。私がかういふのは身ひとつの命、生活を沁々と愛し考へるなといふのではない。しかし身ひとつのいのちを、隣保、衆団、共同体、あまねく同胞のいのちと共感する側面がも活々と、実感的になるべきだといふのである。その意味で集って共の生の真理を探究するといふことは面倒ではあっても、逃げ出せない課題なのである。    (昭和十四年七月九日「生きんとての会」会報第二号)          」
 生きんとての会と倉田百三については、金子智一が以下のとおり解説している。

「生きんとての会」を主宰した倉田百三
                            

金子智一  

 生とは何か。如何に生くべきか。いかに祖国と民族共同体と人類ユニオンに依嘱し、且つ献身すべきか。モラルの究意の源泉はいづこに?私ははそうした生のラディカルな掘下のために、同志の人々とこの会を持ちたい、と掲げ、昭和十四年五月に誕生したが、「生きんとての会」である。この前年二月に『祖国への愛と認識』を出版し、新日本文化の会の設立に努め、機関誌「新日本」の編集長に任じていた倉田先生は、日本主義文化同盟にも加わり、長編小説「浄らかな虹」を発表し、五十三才の生涯の中で最も多彩に、光芒を放って活躍した時であった、と思う。
 支那事変はとどまるところを知らず、イギリスにかわってアメリカが日本包囲の鉄環をつくりつつあった時である。当時、識者という識者までが、イギリスが相手である、という唯中にあって小林順一郎は、アメリカであると警告しつづけていた。
 倉田先生は、アメリカを含めてアングロサクソン民族の悲を糾弾し、インドを侵略し、阿片戦争をおこし、アジアをも支配してひとり繁栄しつつあるイギリスや、フィリピンを侵略したアメリカなどが栄えているその民族のやり方と同じことを、日本が繰り返してはならない。支那事変はイギリスにかわって日本が中国を支配するのではいけない。中国の伝統を尊重し、中国を栄えさせることでなければならぬ、という論旨で、民族の盛衰史か、文化の向上史か、ということを訴えていた頃である。
 しかし、文化界の動向は先生の望むようなものではなかった。民族を説き、アジアを語り、革新を説く先生は、むしろ冷遇をうけていた。そして、期するところがあった。若い人達に呼びかけよう、大きく暖かく、底の底から、多くの若い魂に呼びかけようと決意されたに違いない。かくして「生きんとての会」が誕生したのであった。
 そして私が編集を任された会報第二号のトップに「共に生きること」と題して、
「生きることの課題は、殆ど、共に生きる(ミットレエベン)ことの課題である。友情、恋愛、隣人への愛、協同体への愛、神と共に生きる心、人類とつながる仕事、天地の心に、自然の寂びに一つに融けて生きる態度等皆そうだ」と云い、続けて
「座禅せば四条五条の橋の上ゆききの人を深山木と見て」から更に
「座禅せば四条五条の橋の上ゆききの人の中にまじりて」の心境の方を私は至れりとしたい。いやでも、汗臭くても、面倒でも人みなか脱けられぬものとして、それを負って、それをよくして行くよりないものとして、生きることを考えたい。
 衆の生活、共同体の生活に、責任をとる、生活態度をこれからはとらねばならぬ。」と言っている。
 例会は毎月ひらかれた。会場は現在の山の上ホテルとなっている駿河台の佐藤新興生活館の四階講堂であった。六月十八日の第二回例会は、「幸福とは何か」をテーマに七十九名が集まり、熱論をかわしたが、ピアノの演奏からはじまっただけに、清々しい雰囲気に包まれたものであった。
 第三回は七月九日、「自由について」をテーマとし、六十名の出席があった。
 第四回は八月十三日、「愛と憎しみについて」であった。
 第五回の九月十日には、「新知識階級とは?」というテーマであった。
 倉田先生が目指した新知識階級は、つぎのようなものであった。
 (会報第七号記載)
「われわれが究意に於いて奉行するものは天の意であり、天の意は思索と直観と啓示によってわれわれにあらわれる。
 政治はこの天の意を地に布かんためである。従ってそれは天の意の体得者によって指導されなければならない。プラトンの要請したような賢者と、そのまわりにある補佐者とによる政治の理念は茲にもとづく。
 政治はその本来の要請上宗教政治であり、祭政一致でなければならないのである。エリテが大衆を指導する政治型式は、決して資本主義的の特権階級の覇制意識からではなく、却って大衆にある「私意」を離れて、「天意」に順うことの出来る精神的の選良に政治を行わしめんがためなのである。
 茲に新しき日本に於ける指導的選良ならびにその親衛隊としての新知識階級の任務が樹立されなければならぬのである。
 新しき日本はかような選良的新知識の指導により農民大衆を基盤として建設されなければならない。前者はたましいを、後者はエネルギーを提出して、合体するものである。
 新しき文明を創造するものは、新しきたましいと、健康なるエネルギーとであって、断じて単なる合理的、批判的知性ではない。
 日本の知識階級は、真の指導階級としての任務を自覚するならば、かような分析的知性を以て満足することなく、新たなる文明を創造する産出的の叡智、本能、 構図的想像力を以て立ち上がらねばならないのである」と説き、指導的選良について武士の例をあげ書きつづけている。
 「封建社会に於ける武士階級はまさしく選良であり、その職分を果すために必要な権利を与えられると共に、又庶民階級にない厳格な義務を負わされた。彼等の指導階級としての誇りは其の処から生じた。即ち彼等は少数にして自己に数百倍する庶民大衆を統制するに足る峻厳なる訓練を自らに課し、自律のモラルを建て、これに反するものは切腹を以て償うべきことを当然とした。かくてこそ選良階級として名に価するのである。
 われわれは、日本の新しき知識階級が、この自覚と名誉との感覚を振起することを望んで止まない。かくしてのみ日本の知識階級は自らを救うことが出来るものである。そして日本の知識階級が自ら救い得るまでは、日本は救われることは出来ないのである」
 倉田先生が、「生きんとての会」を主宰し、若い人たちを集めていた大きな目的は、実は右のような考え方からであった。
 当時、小説『大化の改新』を執筆し、『新日本』の七・八月号に発表、腐敗した政治を、どのように改新したかを過去の事例によって明らかにしようと試みた先生は、実は隣邦中国を相手にして、覇権に近い戦いをすすめるその頃の日本の軍部や、政治家を批判し、徹底した日本革新の夢を描いていたのだ。このままでは日本もアジアも亡びてしまう。若い魂を呼び覚まそうとする先生の決意は並々ならぬものがあった。
 会そのものは、すでに意識をもった者にとっては甘いものがあったろうが、じゅんじゅんとして説く先生の熱意は青年達を動かさずにはおかなかった。国民歌謡の「潮音」を歌ったり、「大日本の歌」を合唱したり、疲れそうになるとピアノ演奏があって、若い魂を清純に、開華させようとする努力がつづけられた。和やかで、暖かで、しかもはげしいものをひそめていた。
 そして例会とは別に、「祖国への愛と認識」の読書研究会がもたれ、ここでは徹底した論争が行われ、アジア維新を論じ、アジア諸民族をいかに独立させるか、と話し合ったりした。月例会が六○名前後であったのに比べ、ここでは十五名位であった。
 倉田先生は、一方ではペンを持って、文筆による思想啓蒙をつづけていたが、世相を見るに見かねて、自ら社会にとび出し、青年たちを直接指導することによって、新しい文化の創造を目指したのであった。文人としては例すくないことである。かつて『出家とその弟子』によって世に名をなした先生であったが、『祖国への愛と認識』となり、それは『日本主義文化宣言』として、さらにはっきりしたものを十一月人文書院から出版、世に問うに至るのである。
 生きんとての会の例会は、五月から欠かずにつづけられたが、第七回の十一月十二日には先生は見えなかった。その日は、実は北京にいたのである。
 どのようにして中国と相提携すべきか、現実の日本の大陸政策はどういう結果をもたらしているか、自分の目ではっきり確かめたい、と念じて止まなかった先生の念願がかない、毎朝、胸の病んだ箇所にガーゼをとりかえながらも、旅しつづけていたのだ。
 生きんとての会では、窪田健太郎と称していた窪田雅章君が案内役をしていたが、彼としては実は、日本革新の為のピストル集めをもしていたのだ。その窪田君が会報第八号(昭和十五年一月一日)につぎのように渡航の状況を伝えている。
「十月二六日、船が正に玄海の荒波を渡り終えて、朝鮮の山々がかすかに見え始めた時である。日は正に沈まんとして荒れ狂う大波小波に真赤に照映えて神代のままの美しさ荘厳さであった。今迄私の傍らで寝て居られた先生の姿が見えないのである。私は起き上がって先生を探して見たけれども見当たらないので、そのまま甲板に出て夕日を眺めていた。船がいよいよ釜山の港に入って街の灯が目前にまたたき始めた時、先生は何処からともなく漂然と甲板に出てこられた。非常に厳粛なお顔をして居られた。
「窪田君私は玄海の黙示を受けた」
「人道主義では絶対に駄目だ」
 先生のお声はつかれた者のように、天の叫びにも私には聞こえた」
 ちょうど満二ヶ月の大陸の旅であった。帰国の日の模様を、窪田君の記事を載せた号に次のように報じている。
「十二月二十四日午前九時、冷たく澄んだ冬空のはてに真白い富士の眺められる朝である。六十日の大陸の旅から帰られる倉田先生をお迎えすべく東京駅に集まった兄弟たちは大東塾関係者を混えて五十名。九時五十分下関発急行がプラットフォームにすべり込むと二月の旅にいささかの衰えも見せぬ元気な先生と窪田さんが下りたたれる」
 青山新太郎君の筆である。たしか、その前号あたりから会報の編集を、私にかわって彼にお願いしたのである。しかも帰国直後、お宅にも帰らずに、まっすぐに佐藤新興生活館に行かれた。月例会である。青山君の記はつづく。「会員(六四名)起立して大日本の歌を合唱する。つづいて倉田先生が起たれてまず今度の旅の結論として、内地の指導者たちに決意と方向に欠け、わが国民的実力が大陸を導いて行くまでに高まっていないために、日本の大陸政策が今大きな転換を要求されていると説かれ、その二つの問題を各地に見聞した具体的な事例をもって説きつづけられ、日・支の真の協同の上に、新しい文化を創りあげて行くことは東洋の予言であり、この予言を実現するためには大地に生きる支那民族のエネルギーと指導的宗教家・武士階級としての日本民族の魂との結合がなされなければならない、と言われる。
 しかもそうした新東洋の指導者はこれまでのヒューマニズム・知性主義を越えた、より深き生の根本的把握者としての新知識階級であり、青年・学生こそはかかるものとして祖国の危機を一身に荷い、もって東洋を再建しなければならないと一時間半にわたる熱論を結ばれれば、 二月ぶりでの先生のお話に一同酔えるものの如くであった」
 大陸旅行後の先生は『新日本』に『怒濤』にとすばらしい論文を寄せられ、健康そうに見えたが実は旅の無理がたたってきていた。
 昭和十五年の二月十一日といえば、皇紀二千六百年の紀元節の日である。人間の価値と公共の道のテーマで先生を中心に会がすすめられ、生きんとての会歌が発表され、はげしい論議が行われたが、この日を最後に、先生は病床に伏すのである。当時の会員数は一六一名で、名簿がのったのは会報十号である。
 生きんとての会は、先生のメッセージをもらったり、講師を呼んだりしてつづけられた。いろいろの人たちが集まっていた為に、その一人一人は先生に結びついてはいたが、全員が一団となるところまでゆかないうちに先生病臥の日を迎えたのである。
 しかし、先生と直接結びついて、お互いは人間的にも思想的にも、どんなに高められ、深められたことであろう。そして数は多いとはいえないが、先生に啓発された会員の中の一団は、それぞれに活躍するのである。
 昭和十六年、ついに日本は米英に宣戦を布告し、戦火はアジアにひろがった。
 中島進八郎はすでに応召し、大陸に渡っていた。彼はやがてマレー作戦に参加し、シンガポールに突入、インドネシアに渡り西イリアンに行き、アンポン島で終戦を迎え、戦後インドネシア問題の権威として日イの真の提携に従うのである。
 窪田雅章君は、東亜文化圏を主宰し、中国と日本を往復し、その提携に努力し、今国民外交協会を推進している。
 桑木崇秀君は、ビルマに渡り、軍医として現地住民との親和を計ったりした。医学の真のあり方を糾明せんと、東洋医学に研鑽している。
 木呂子敏彦君は、樺太に渡り、軍の自活に努力し、終戦後中央アジアまでソ連軍に引き回されたが、教育委員として帰国後努力、アイヌや僻地の教育に異常な努力をつづけて、今は地方自治の建設に努めている。
 山川弘至君は、台湾の防衛に渡り、終戦二日前、文業中ばのままにして倒れた。
 岩堀育也君はボルネオ住民との親交をかさねつつも、病にはかてなかった。
 玉井顕治君は内地に残り、前田虎雄師らと国内革新を計ってならなかったが、今や次代の青少年の健全化に身をもって当っている。
 生きんとての会員の男子は、殆ど大部分アジアの各戦線にちらばっていった。
 そしてそれぞれに活躍し、何人かは土にかえった。それにしても、倉田先生の教えは、どんなに大きく影響したことであろう。
 私自身、はっきり言えることは、倉田先生の教えが、インドネシア独立運動に,確かに影響を与えた、ということである。
 戦後十八年、私は自分のやった事を、言うまい、と努めてきた。
 しかし、今ここに、あえて、倉田先生の教えに従って、インドネシア独立運動に協力してきたことの事実を、事実として伝えたい。インドネシアが独立したのは、インドネシア自身の力であるしかし、その最大の契機は、日本の犠牲に於いて行われた今次大戦である。ビルマにしても、マラヤにしても、インドにしても同じである、と私は確信している。インドネシアは日本の敗戦の二日後に独立をハッタ・スカルノの名において宣言している。 独立の戦い中心をなしたものは青年達であった。その中でも武力的には、防衛義勇軍や、兵補や、ヒズブラーという日本側が教えた人達であった。思想的にリードしたのは現在四十五年組といわれる清新気鋭の人たちである。その人たちの思想統一と、全国的な連絡を可能にしたのは、アンカタン・ムダと呼ばれた青年達の大会で、アブドル・ハミット君、デ・イスカンダル君、イブラヒム君、パリンデイ君、イシャンシャリ君などという優秀な青年達がその会合をもつようにしたのである。それまで彼等は、二年間私と文字通り起居を共にする日が多かった。
 独立の意欲に燃える彼等の全国的な会合を日本の軍政当局は、許しそうもなかった。私は、私一人の責任に於いて、バンドンのジャワ作戦記念館を開放し、全国連絡を彼等にとらせた。三百名近い大会が終わって、はじめて憲兵隊も知った。
 私はきびしい尋問を受けたが、敢然として事をわけて話した。ジャカルタからは一人清水斉氏が出席した。
 つづいて、ハジ・ガニ・アジス氏を中心にして、インドネシア経済人の全国大会を召集した。この時はさすがに軍政当局から経済担当官が傍聴したが、やはり私の責任に於いて開かれたものである。インドネシアが政治的に独立しても、経済政策が遅れていては独立の達成が不可能ではないか、という配慮からで、この席上ハッタ氏はコプラシイ(協同組合)のことをさかんに説いたのである。
 この経済大会が終わって間もなく、終戦を迎えるのである。私は若いインドネシアの同志達と寝食を共にしながら、倉田先生に導かれたことなどを説きに説いた。日本人の中でも、清水斉、西嶋重忠、柳川宗成氏をはじめ、独立軍に投じて戦死した市来竜男氏や吉住留五郎はじめ山本茂一郎、前田精、宮元静雄氏など多くの人材が、それぞれの立場に於いて独立に協力しているが、ここではふれない。
 私が倉田先生が亡くなったことを知ったのは、バンドンで、三月も間近かな日の午後であった。内地から送られてきた新聞の片隅に小さく報じられていた。
 「一緒に行きたいね金子君!」と去って行く私を追うように、体を半ば起して見送ってくれた大森の病院での別れがまざまざ思い浮かばれ、深い悲しみに沈み、せめてもう十年生きていて欲しいと痛感したのだった。
 生きんとての会は、その後も二、三年にわたって会報『銀嶺』を発行し、会合ももたれていたらしい。その頃は桜木国晴(金子智一の長兄、金子智彦)が中心であった。
 私が帰国したのは昭和二十二年二月二日であった。生きて帰ったのが不思議な思いがする。多磨霊園にある倉田先生の墓前には命日の前後には門弟たちが集まって墓前祭を行っていた。
 爾来二十年、今日に至るまで一度も欠かされたこともなくこの墓前祭はつづけられてきている。二月十二日の命日に最も近い日曜の十一時を期して集り、伸びた樹々の枝をはらい、墓を清め礼拝を終わって、川上石材店で座談会というのがならわしである。昭和三十八年二月十日もその日である。一子地三氏は孫を連れて来るに違いない。
 生きんとての会は、今日も尚、生きんとして、先生の理想像をうけつぎながら、黙々として、地の塩の如くに生きつづけているのである。


 『不二』三月号 倉田百三・二十年祭追悼号(第十八巻第二号)
 昭和三十八年二月二十五日発行 発行所 不二歌道会


「窪田雅章君が案内役をしていたが、彼としては実は、日本革新の為のピストル集めをもしていたのだ。」という部分については、金子智一と当時行動を共にして、「生きんとての会」の会員だった玉井顕治の「倉田百三の菩薩行」の中で語られている。
「君たちと一緒に起ちたい」
 大東塾を中心とする「皇民有志」は、予ねてより二・二六事件の後を継いでの非合法決起を計画していたが、愈愈昭和十五年七月五日を期して実行することになった。その一週間ほど前、私は窪田君と連れ立って、大森の平井病院に入院されている倉田先生に、今生のお別れを告げるべく見舞った。私たちは決死の覚悟だったから…。
 先生にその旨申し上げると、先生はベッドから身を起こし加減に、粛然たる面持ちで「こんな健康状態で、君たちと一緒に起てなくて、申し訳ないね」と仰った。私は慌てて「そんなつもりで申したのではありません。国家の将来の事を先生にお願いしたくて…。先生、どうか早くご快癒下さい」と言った。窪田君も一生懸命、先生に嘆願していた。
 決起事件は、直前に発覚して抑えられた。当局は厳重な報道管制を布いたから、世間には知られなかった。しかし、陸軍はこの事件を重大視して、陸軍大将米内内閣は倒れ、近衛内閣が登場し、所謂「近衛新体制」が発足した。
 幸い倉田先生には累が及ばなかったらしく、獄中の私へ先生から、ピエル・ロティの幻想的な「トルコ旅行記」が差し入れられた。ピエル・ロティという作家の名前も知らなかった私は、先生に「目を開かされた」思いがした。
 P146~P151「倉田百三の菩薩行」から抜粋
 『倉田百三の真髄』「生きんとての会」編 平成3年10月13日発行

 倉田百三との書簡でのやりとりは、今の所木呂子敏彦の遺した書簡類の中には発見されていないことから、どうのような交流があったか具体的に辿ることができない。
 そのため、最後に木呂子敏彦が応召以降に生きんとての会会報『銀嶺』に寄稿した文を掲載する。
「浦賀より   木呂子 敏彦
 あまり急で連絡つかず失礼しました。二十二、三のはげしい気合のかかった青年の集団、随分きびきびとした内務の指導です。自ら若さを覚えます。伊吹山さんと生活館でお会いしました。先生帝大へ再び御入院の由宜しくお伝え願い申上げます。一週間は夢の如く去りました。十月迄居ります。お会いできるでしょう。日曜、休日は面会が許されています。お序での節お立ち寄り下さい。
 会員の皆様によろしく、合掌。                   」
  会報『銀嶺』第二十五号 倉田百三主宰「生きんとての会」
  昭和十七年六月一日発行
「心霊的契機   樺太白主  木呂子 敏彦
 新聞紙上で先生のお亡くなりになられましたこと承知いたし、まことに驚愕只々御愁傷の至リでございます。大陸の旅より大変お元気で帰られましたのに、再び長い御病床の生活は、すめら大みいつの亜細亜にあまねからんとする運命の日に極まりない悲そうな御生活でありました。
 始めて会が催されました頃の生活館講堂に於ける先生のお姿か、今更の如く慈父の面影の様にお懐かしく浮かんで参ります。
 新聞紙上では先生の御生涯が「出家とその弟子」を著された時代のお姿しか報ぜられず、「祖国への愛と認識」以後に於ける先生の御生活の記されていないことがまことに残念に思われてなりません。「神学の四季」に示された雄大なるくにと血への浪漫的熱愛は限りなく高く限りなく美しい「すめらみくにぶり」を私どもにお教えくださいました。今は小生の感嘆感銘の極みのものでございます。偉大なる民族の叙情詩でありました。学校を卒業いたし、こちらに参りました節、先生は芭蕉について書きたいと申され、又「銀嶺」で「大化の改新」を再び御執筆の様にも伺い大変ありがたいことと感謝いたして居りましたのに、今ここに先生の訃を承り悲痛の思いであります。
 小生在京時代先生より賜りました御教導は、人生の今日あるに到らしめた深い々心霊的契機でありました。生来の反骨は先生によってすめらみくにの大きな国改めの悲願熱祷として霊化され愈々深められたのでありました。悔い改め悔い改めてようやく日の本ますら男の子の道に至らんとして努力いたして居ります。
 先生の御薫陶はたとえ先生神去りましし日にも、美しい我等の生の秩序はいよいよ確かとされ、南の海に、北の氷原にきっときっと交わりを深くして行くことでありましょう。自分はかたく陣して止みません。           」
会報『銀嶺』第三十二号倉田百三先生追悼号 故倉田百三主宰「生きんとての会」
昭和十八年四月一日発行


「邊にこそ死なめ ―樺太 白主にて―
 木呂子 景楠
 私は今、日の本すらみたみと生れて、この外に生きる道の無い唯一の道に生き抜かれた熱田(アッツ)島玉砕の山崎中将閣下以下二千五百有余の招魂の儀の写真を前に、暫し祈念してこの筆を執る。
 北辺際涯の地に我と共に防人と召され、半年に余る月日を同じ兵室に起居し共に興じては江差追分節を習い覚えた十数名の戦友も亦、図らざりき熱田(アッツ)に転進、北海の孤島に神と帰したのである。「骨を北海の戦野に埋め、護国の神霊として悠久の大義に生く、亦快なるかな」莞爾として従容迫らず熱田桜のその如く散って行かれた山崎部隊長の最後の言葉である。
 私は「山本元帥に続け」「断じて玉砕魂に応へん」という指導者の作成する標語にむしろ寂しい空虚を感じ、神となる日の心情を切に念っているのである。
 憶ひ見る、昭和十八年五月二十九日、壮烈鬼神を泣かしむる勇士達の玉砕以来誰かこの心情について語りしか。
 我等身に光栄ある戎衣をまとふが故に神となり得る日の感激をあゝ、誰か語りしか。
 千萬金を積むとも購い得ざるこの戎衣をまとふ日の光栄について。
 我等は凡愚卑賤、不純不徳、我が行うことは我知らず我が欲するところの善はこれを為さず、反って我が憎むところの悪を為しきった我等である。
 然るに而に我等神となる日は如何なる日か。今、熱田島皇軍奮戦に関する陸相の議会における報告を見る。
(昭和十八年六月十七日付朝刊)
「当時深ク其ノ忠勇ヲ嘉スの旨の優渥なる御言葉を賜った趣に洩れ承っているが」との陸相の言葉。私はこのところに至って、電気に打たれた如く居すくめられ、やがて涙滂沱として感涙したのである。
「軍人に賜りし勅諭」は神の教えであって、「戦陣訓」は人の教えであると曰はれる保田與重郎先生は正しい。戦陣訓の諸徳によって忠烈軍神の行動を解せんとするのは未だしいのである。
 深ク其ノ忠勇ヲ嘉ス
 この御言葉の故に、人は神になるのである。この御言葉の故に一兵の援助一発の弾丸の補給を頼まず、傷者悉く枕を並べて自決し、軍属は今は亡き戦友の銃剣を執り、全員悉く玉砕し、護国の神霊と帰したのである。
 もとより一度戎衣の人となる生を期せず死を見ること生の如きは我等伴の緖の平素の本懐、しかも猶迷い多く恥深く罪重き我等のよく神となるは、この御言葉の故である。
     朕ハ汝等軍人ノ大元帥ナルソ サレハ
     朕ハ汝等ヲ股耾ト頼ミ 汝等ハ
     朕ヲ頭首ト仰ギテソ
 と仰せられる神の御言葉の故である。
 粛々と祭場に向って進む二千五百有余の英雄、捧持して進むは同じく二千五百有余の青年学徒、あゝ異常の日に学ぶ若き世代よ。北海の空より天翔り国駈けて今ぞ還り来りぬ壮烈ますらおをのまたましろを抱き何ぞ感慨がある。「ただに、邊にこそ死なめ」である。
 この身命は、天皇の御為にのみ死にたい。天皇の行きます先々に従って、その御邊に死にたい。事なく安らかには死なじ、と歌った大伴の族の心情は、我等神となり得る日の心情である。
     海行かば 水清く屍
     山行かば 草生す屍
     大君の邊にこそ 死なめ
     顧みは 爲じ。

(二六○三・一〇・四)

 会報『銀嶺』11 第三十九号  故倉田百三主宰「生きんとての會」
 昭和十八年十一月八日発行