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宮沢賢治と木呂子敏彦

1.宮沢賢治に出会う
 宮澤賢治は、1896年(明治29年)8月27日岩手県花巻市に、明治三陸 大津波(6月15日)の年に生れ、昭和8年(1933年)3月3日に昭和三陸 大津波があり、その年の9月21日に亡くなる。享年37歳。
  木呂子敏彦は、1914年(大正3年)3月11日北海道中川郡池田町(河合 村)に生れ、2005年4月4日に亡くなる。享年92歳。
  年齢的には18歳の年齢差があり、木呂子敏彦は宮沢賢治より55年も長く生きた。
  昭和9年木呂子敏彦は、3 年間の代用教員生活に区切りをつけ、農業を勉強しようと十勝農学校に新たに設けられた研究科に入学し、翌年には研究科を終了し 研究科助手となる。
  偶々北海道の農村の青年教育を束ね担う人材を探していた佐上信一北海道長官の思惑が一致し、農学校研究科助手から、昭和11年4月北海道庁の学務課の全道の青年教育を担当に抜擢されます。ところが佐上長官はその年5月で病気を理由に辞任し、池田清長官に交代。池田長官も昭和12年5月に辞任、後任に昭和6年から岩手県知事だった石黒英彦が北海道長官に就任した。木呂子敏彦は、北海道の青年団を統括する協会の事務局長として『北海青年』の編集にあたった。 しかし、新任の石黒長官は、東京大学の筧克彦の門下で文部官僚、朝鮮、台湾の植民地官僚を経て岩手県知事となり、皇国主義的思想の推進者で岩手県に六原青年道場を設立した人物で、道庁職員を札幌神社に強制的に参拝させたり、青年教育についても、皇国主義教育の推進であり、木呂子敏彦の考え方と全く異なっていた。このため希望社運動で仲間であった加藤善徳氏から自分が編集長である雑誌の編集を手伝えと上京を催促されたこともあって、道庁を辞め上京することになる。
  ちょうどその頃、婦人の友社の『婦人の友』昭和13年3月号に高村光太郎が新日本娘読本というコラムで宮沢賢治の「雨二モマケズ、風二モマケズ」の詩を紹介したのを読み、初めて宮沢賢治の詩に触れ、深く感動した。
  上京後財団法人佐藤振興生活館(戦後駿河台「山の上ホテル」となった建物が
財団建物)「生活」の編集者となり、早速その雑誌に詩の欄を設けることを提案し、自ら高村光太郎に詩の寄稿をお願いにいく。
  高村光太郎から賢治についていろいろのことを教わり、さらには盛岡時代の賢治の友人でガリ版刷りの宮沢賢治詩集を無料で配布し、賢治の詩の普及に努めて
いた藤原嘉藤冶を紹介してもらい、藤原嘉藤冶が勤めていた日本青年館にも出入りしていた。残念ながら、宮沢賢治を最初に東京で紹介した草野心平(高村光太郎と師弟関係)は、昭和13年 3 月に中国に渡り、その後汪兆銘政権の顧問として終戦を迎えているので会う機会がなかった。
  木呂子敏彦の回想によれば、「昭和52年に書店で雑誌『ユリイカ』に「総特集・宮沢賢治」とあるのを見つけた。パッとめくると座談会の記事があり、冒頭、「自己紹介 私は神田の木呂子敏彦です」という活字が目に飛び込んだ。昭和15年5月13日、東京・日本青年館の一室だった。東京の宮沢賢治研究会の初会合で、賢治が岩手・花巻農学校の教諭時代に同僚だった藤原嘉藤治さんが司会し、中島 健蔵さん、谷川徹三さんらを交えて座談会をした時のものだ。
  座談会のあと、8月に賢治の実弟清六さんを花巻に訪ね、いろいろお話した。この時清六さんから賢治遺言の1,000部の中の1冊の法華経を頂き今も手許にある。北海道賢治の会の代表を務めているが、昭和50年に宮沢賢治文学展を帯広など道内7ヵ所で開き、35,000人以上の入場者で大成功を収め、花巻市に賢治記念館建設を促す寄付をした。翌年には帯広市の中央公園に同展の益金で文学碑を建立した。(この時、草野心平を帯広に呼び講演を依頼するため当時東京の曙橋にあったフジテレビで「小川宏ショー」出演終了後、テレビ局1階の喫茶室で会っている)。」

2.疲弊する農村問題

(1)岩手県
 大正13年 旱 害  小作争議  1,532件、
 大正15年 旱 害  小作争議  2,761件
 昭和 2年 水不足  小作争議  1,665件
 昭和 5年 野ネズミの異常繁殖  2,478件 
            小作争議
 昭和 6年 凶 作  小作争議  3,419件
 昭和 8年 大豊作、 小作争議  4,000件
   昭和三陸大津波
(『宮沢賢治没後七十年の展開 修羅はよみがえった』(財)宮沢賢治記念会刊
  P195~214「岩手の農業と宮沢賢治」阿部弥之 )

(2)北海道
 昭和 6年 冷害 195千町歩の水田のうち36千町歩(18%)収穫 0
                      62千町歩(32%)収穫1/3
                      21千町歩(11%)被害無
          630千町歩の畑    惨憺たる被害
 児童の欠食、子女の人身売買、教員、役人の給料減俸・未払い、小作争議が多発、飢餓線上をさ迷う道民10~20万人という有様。
 大正2年の大凶作に比しても最悪の事態で、昭和6年に就任したばかりの佐上長官は「北海道凶作救済会」を組織し、罹災者の救済に敏速な処置をとった。
 救農土木事業を起こし、道路、橋、護岸工事によって労賃を与える応急措置が功を奏した。
 昭和 7年 冷害     田畑のうち  110千町歩(13%)収穫 0
                     250千町歩(31%)収穫1/3
                      47千町歩(6%)収穫7/10
 春は良かったが6月末に根室、釧路、宗谷のいわゆる道東、道北に予想もしなかった晩霜が襲い、麦、馬鈴薯を除き全滅。7月は更に天候不順で、十勝、網走に雹が降り、病害虫が発生し凶作。根釧原野の農民が本物の筵旗を押したて、「生活を救え、生活を保証せよ」、「われわれはだまされた。もっと肥沃な土地をよこせ」「郷里に送り帰せ」と叫び、怒り狂い、暴徒とかした。」という状況であった。
 (出所:黒沢酉蔵「北海道開発と佐上さん」北海タイムス連載「北海道開発」から抜粋)

3.農村教育
(1)宮沢賢治
 大正10年(1921年)に稗貫農学校(この学校は大正12年(1923)花巻農学校と校名を変え新築移転)の教師となった。賢治は、英語、化学、代数、作物、土壌、肥料、気象、水田実習の8教科を担当した。この4年4ヶ月間の教師時代、最初に手掛けたのが卒業生の門出を祝う花巻農学校精神歌の作詩。この間『春と修羅』、『注文の多い料理店』の著書を刊行した。
  岩手国民高等学校は、当時の政府がすすめた農村更生運動の一環、国民高等学 校計画にしたがい、大正 15 年(1926年)1 月 15 日より 3 月27日まで、県 立花巻農学校で3ヵ月間)開催された。
  これを誘致したのは県社会教育主事の高野一司で、彼は筧克彦や加藤完治の直系といわれる。県の農学校卒業者など18才以上の農業青年が推薦で集められ、将来の農村リーダーの育成を目的とした全寮制の講習会形式だった。
  授業科目は、農業経営法や産業組合法といった専門科目に文学概論、芸術概論、音楽概論、最新科学の進歩、世界之大勢、近世文明史といった一般教養科目、
  それに國史の精神、国民体操、やまとばたらきなどの皇国精神涵養のための科目が教授された。ほか産業組合や県庁、議会、裁判の公判などの見学や、植物病理、緯度観測、自治制といった課外講演も組まれ、国粋主義的な要素をのぞけば、フォルケホイスコーレ(デンマークの国民学校)の影響がうかがえる内容である。 賢治はここで農民芸術概論の講義を担当したが、やめてしまう。 賢治は農学校卒業生農民や額に汗する若い農民や「働く人なら誰でも入会でき る」羅須地人協会を、宮沢賢治の労農芸術学校構想に基づき開設した。
(大正15年8月~昭和4年4月)
  この私設の百姓塾では、図表による分かりやすい農業科学の指導や農作業着の工夫と試作、レコードによる音楽鑑賞、楽器の演奏、エスペラント語学習ほか、賢治個人の限界まで精力的に取り組んだ。折しも、普通選挙前夜であり、治安維持法下の厳しい労農運動弾圧時代であった。昭和3年10月、花巻に昭和天皇を迎えた陸軍特別大演習が開催された時で、協会メンバーは官憲の取調を受け、活動は弾圧を受けた。賢治は、創作活動に加えて、自作地の開墾作業と各地の肥料相談所の開設や懇願される厖大な肥料設計書の作成で心身を酷使した。この夏病床に伏して、協会を閉めた。
(『宮沢賢治没後七十年の展開 修羅はよみがえった』
(財)宮沢賢治記念会 P195~214「岩手の農業と宮沢賢治」阿部弥之)

(2)木呂子敏彦
 帯広中学卒業後、清水町の下人舞小学校と上旭小学校で教職に就き、連年の凶作で疲弊した農村の姿、当時小学校の生徒のみならず、青年学校も併設され、卒業した子供達の教育にも奮闘した。農村教育の一環として、尋常小学校に併設して夜間青年学校として、卒業した農業青年に授業を行うもので、彼等は青年団員であり、謂わば産業組合の青年部である。産業組合の主導権を握り方向転換させようとした。十勝の農村をどう変えたら良いのか、水田不適地の稲作付をやめさせ、有畜畑作農業へ転換させようとする。ほぼ毎日産業組合に顔を出す。地元の青年団の幹部に自分の考えと同じ同志を選出させる。青年団の改革や、近隣農村の有為な青年と連携し十勝興村連盟を組織する。
  しかし、十勝の農業を考えれば考えるほど、農業について勉強しなければと、十勝農学校に新たに出来た研究科に入学する。
  この研究科は昭和6年に北海道長官に就任した佐上信一長官の肝いりで、連年
の凶作に北海道の農業を水田不適な土地でも米作に依存する農業から寒地農業の
確立(酪農、畑作主体)に向け努力し、農業教育の現場の刷新を企図して設立されたものである。
「4月26日 十勝農学校研究科に登校
  6月26日 ニルスブック著の『丁抹の教育』を読む。グルントビーは言っている。「精神の最良な道具は人間の言葉であり、音声の生きた道具によって精神的生命は人から人へと伝えられるものである。」、更に「文字に書いた言葉は、精神的生命の絵画に過ぎないが、語られる言葉は精神生活自身である。」至純の魂を動かすものは至純の魂より溢れる生命の言葉である。」と。
  聖書は「大初に言あり。言は神と偕にあり。言は神なりき」(ヨハネ伝 1-1)とある。中崎先生の青年指導編に曰く「青年は口先で動く」と真理なるかな。若者心をうつものは魂の言葉あるのみだ。人は音声によって、その人物を大体知ることが出来る。透き通った声、力のこもった声、腹の底から溢れて来る声。透明な魂より溢れて来るものは透明な言葉であり、声である。しかし、至純の言葉の前には至純の魂を磨かねばならぬ。
  グルントビ―55歳、クリステン・コル35歳、キリストは31歳、釈迦は35歳、ペスタロッチは29歳。20歳。準備期である。自己を作る。深める。高める。広める。清める。幻を見つめる。幻がはっきりして来る。十勝興村塾、皇国のために。この身を捧げて。
 7月13日  佐上長官17日来勝 農学校見学の由
 7月17日  快晴 起床6時 午前9時北海道長官佐上信一氏来校。
        約30分間訓辞。青年北海道の農村を救うものは青年である。
        実に心地よき日である。第2実習地の除草作業。
        長官視察さる。               」
 (木呂子敏彦 昭和9年「心の日記」より抜粋)

 十勝農業学校研究科については、「昭和9年、十勝農学校は甲卒業生の中で、農業を自営する者や農業関係職種に就職している者に対して、勤労実習本位の再教育を施し、地方の経営に即した農業経営の知識技能を体得させるために、研究科(昭和9年4月~昭和15年3月)を設けた。この研究科は、農業自営者のための「農業経営部」、農会および畜産組合の職員たちのために、「農会および畜産組合部」、産業組合の職員たちのために「産業組合部」の三部門を設けており、入学資格は中学校または農業学校卒業後2年以上の実務経験者としている。教育課程は、当初は必ずしも固定したものがなかったといわれ、研究科生徒自身が経験の交流の中に、十勝農業の将来を模索するといったかたちをとったという。
 ただわが国の古典を重視して、国民精神や国家的信念の涵養につとめ、また体操・唱歌を併せ課するなど、農民情操の陶治に資するようにし、また産業組合に関する利用を多くして隣保共済の精神の涵養につとめるなどの配慮がされた。生徒達は、自治寮の中で、共同生活を営みつつ、晴耕雨読的な生活を送ったが、テキストとしては、「北海道農業試験場彙報」や「北農」等を用意し、自主的研究の必要に応じて利用した。
 したがって、教師も、一般の場合と違って、随時情報を提供したり、また必要に応じて助言するという立場をとった。つまり、この研究科は、通常の学校教育の形式をとらず、志を同じくする者が自主的に研究するゼミナールであった。 
 なお、研究科生徒の実習のために、実習地10ヘクタールの混合経営4戸分(昭和11年現在)を準備し、住宅、畜舎、納屋等を付設し、家畜、家禽、農具を備え、農家としての実感を与え、実習効果を高くした。第1回卒業生は8名、追加応募者を加えて21名であった。その後昭和10年に2年制に延長され、隔年募集となったが、昭和15年3月4回生をもって、廃止となったので、卒業生総数42名という少数に留まった。
 この研究科の制度は、当時としては画期的なものであり、今日でも“後教育”の方法として優れた示唆を与えるものである(「帯広農業高校五十年史」)。月謝は免除、当面月7円内外の食費と尚学用品参考書その他等5円程度が必要であったが、産業組合の利用により負担軽減を図ることになっていた。」
 (出所:田島重雄編『北海道農業教育発達史』P46~50)

 木呂子敏彦において、賢治の「羅須地人協会」に対応するのは、戦後公選制の教育委員になり手がけた定時制農業高校であろう。
 「戦後の北海道農業教育の中でもっとも特筆すべきは、市町村立定時制課程で行われた教育で、十勝の殆どの市町村が定時制農業課程を設置し、ホームプロジェクト教育を採用し、いわゆる村づくりの教育を展開した。なかでも上士幌高校(昭和25年5月~)は「コミュニティ・スクール(地域社会学校)」の思想のもとに、精密な地域実態調査を行い、画期的な実践を行い成果をあげた。広く日本中に「村づくり学校」として喧伝され、農業教育の一つのモデルとして後々まで影響を残した。
 (出所:田島重雄編『北海道農業教育発達史』P184~194)

3.デクノボーと田吾作
 木呂子敏彦は昭和6年に代用教員として連年の凶作で疲弊した農村(現清水町)に入り、十勝の農村有為な青年と興村連盟を設立し農村の青年教育に腐心していた頃日記に「田吾作」を書きつけ、岩手では宮沢賢治が「雨二モマケズ、風二モマケズ」と手帳に書き残しました。
 昭和8年に昭和三陸大地震が起きて岩手県の沿岸部は壊滅的被害を受け、この年9月に宮沢賢治は亡くなってしまいます。翌昭和9年に賢冶の弟清六氏が賢治形見のトランクの中から、手帳に書かれた「雨二モマケズ」を発見して、この詩を東京で賢治の詩を惹かれた人々の集まりである東京の「宮沢賢治の会」で初めて紹介しました。
 二人の言葉を詩として比較するはそもそも問題があろうが、二人の思い、心情をみるという意味で参考までに掲載します。

(1)デクノボー(宮沢賢治 「雨ニモマケズ手帳」 36歳)
昭和6年11月 3日
 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 
 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ 
 イツモシヅカニワラツテヰル 一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ 
 アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニヨクミキキシワカリ 
 ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 
 東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 
 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ 
 ミンナニデクノボウトヨバレ  ホメラレモセズ クニモサレズ 
 サウイフモノニ  ワタシハ ナリタイ
 注.デクノボー=常不軽菩薩=釈迦の前世


(2)田吾作(木呂子敏彦 昭和6年心の日記 18歳)
昭和6年11月20日

 田吾作と云う語あり。卑しき言葉とか云わん。どうして、どうしてこの語こそ百姓の信条也。釈迦は、その生まれ落ちし時、右手を高く天に指し、天上天下唯我独尊とのたまえりと。
 我等百姓は須く鍬高くさし上げて田吾作と叫ばん哉。田は吾が作る也。我等こそ尊き農民也。誰か食を他にして生き得るぞ。命根を作る農民こそ尊けれ。