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木呂子敏彦と師 後藤静香

 木呂子敏彦にとって、帯広中学時代に偶然図書館で希望の本を発見して希望社運動に熱中し、卒業後代用教員になっても、国民教本を使って夜学や4Hクラブ、デンマーク農業の研究と後藤静香が『希望』に書いたことを実行していた。昭和6年9月希望社攻撃の新聞記事がのり、その後全国の新聞や雑誌などに希望社ならびに静香に対する非難中傷の記事続出、極左分子の希望社撲滅運動も展開される。このバッシングに対して師擁護の文章を印刷し、希望の友の会員に送る。
 その年の暮初めて上京し、西大久保の希望社本社を訪問し、宇治山田の希望社学徒連盟の講習に参加し、翌7年1月岡山県の長島愛生園に謹慎していた後藤静香、潔父子を訪問する。
 初めて会う師に対して緊張の余り、リュックに偶々入れていた角食のパンを「先生パンを召上って頂けますか」とお土産として渡す。本人は、師の前で何を話したか覚えていない。しかし、この長島愛生園訪問で生涯の師弟関係が結ばれる。
 その後代用教員を辞し、農業を学び直すため十勝農学校研究科に学ぶ。
昭和10年3月14日
 拝啓 御卒業大慶に存じます。残る年来の期待に背かず新しき道の開かれたる事
 欣躍の至リです。御自愛御自重を祈ります。

敬具

昭和10年6月25日
 泉拝受 樹上に此の種の空気愈々濃厚となり。御同慶に存ず。
小生の件、世間的には恩典なるも良心○知せず即日上告仕り候 
潔 学生使節として七月十三日発
昭和11年2月6日
 珍しく大雪が降り、北国の方を一層近く感じます。
 「研農」拝受、玉稿も拝見、御礼申し上げます。

二月五日  静香

昭和11年3月3日
 長嶋のパンを忘れず十勝にもありや。無くば、御返礼に御送り申すべし。
 御健在を祈る。                静香
 青年団のまとめ役を求めていた佐上信一北海道長官に請われ、札幌の北海道庁に
 勤務することになる。北海道の青年団の機関誌『北海青年』の編集にあたる。

昭和11年4月1日

昭和11年9月18日
拝啓 母病気につき 御見舞下され感謝致します。全快の見込確実と相成り候付御安心下さい。大兄の前途を楽しみです。

昭和11年12月26日
木呂子兄 長島で頂いたパンの一つに利息がつきました。大変おくれました上に、札幌ではお珍しくもないと思いながら、兎も角日本の一の品を送ります。御友達と召上って下さい。

昭和12年3月23日
 拝啓 「北海道青年」毎号拝読感謝。大兄の御苦労並々ならずと御察し申上げます。前途ある貴兄の事故、ここ当分現実に根をおろし一仕事して苦しみぬきその上にて第二の案に進まれる事

昭和12年5月26日
「北海道青年」骨組あり肉あり感心して拝見致し、或る男の夢も大文字となり
之に目をつけた男前途有望と見込んで      五月廿六日

敬具


 昭和13年4月には希望社に関係していた加藤善徳の勧めで上京、雑誌『生活』の編集者を経て、召集。樺太の軍隊時代、シベリア抑留、日本への帰還を経て、公選制教育委員当選。

 教育委員二期目の昭和27年3月、十勝沖地震(震度6 M8.2)で日高の平取町二風谷小学校が大被害を受け、穂坂二風谷小学校校長、貝沢正PTA会長等が北海道教育委員会に学校建物の再建を陳情し、「知恵と力」を貸して欲しいと要請される。
 二風谷の方々に平取に居たアイヌの歌人違星北斗の遺稿にある「コタンに浴場を建てたい、希望園を造りたい」の夢を話し、風呂と水洗便所のある学校を提案、設計はフランク・ロイドの弟子田上義也に頼み、和人を見返すような学校を造りましょうと話す。
 二風谷の人が総出で手伝い、赤いとんがり帽子の時計塔のあるハイカラな校舎、風呂と水洗便所のある当時では考えられない学校に出来上がった。「違星北斗の会」を結成して『違星北斗遺稿集』を作成し、違星北斗歌碑建設を呼びかける。

昭和29年4月21日
 木呂子敏彦 様
 久々で御書面頂き、嬉しく拝見しました。いつもよいお働きをつづけられ感謝です。
 違星北斗、「今も生きて働く」の感をうけました。あの平取には、バチェラー氏経営の幼稚園があり、それが経営に困っているというので、私が毎月百円づつ相当長い期間に亘って送りました。氏の意見によって、小学校になると、アイヌ部落のものと一般の子供との融合がむつかしい。幼稚園時代から親しませるに限る、というのです。
 それは尤もだと思い、前記の様な応援をしていたのです。その当時の百円は決して少額では無かったと思います(大正十年頃*からと思います)。
 しかし、一つは伝道の方便でもあり、且つ何分にも外人を介しての事で、私の気持がどの程度通じているやら分からず、中止しました。
 その後の事、新聞で平取にある小学校の分校が経営難で廃止になる。そうなると川を渡って通う部落が出水、雨の日などは、通学不可能になるといういたましい記事を見ました。丁度その頃、百済文輔氏(北海道庁内務部長)であった為、長文の電報で、平取分校の経費は希望社で負担するから継続を乞うという意味の申し入れをしました。
 その後の事、百済氏より之を感謝し、道庁で継続することにきまったとの電報をうけ、私のおせっかいが無駄でなかった事を悦んだ次第です。
 但し、いきさつを知っている人は、平取にはありますまい。私の若き日の熱情が、貴下のお力で実を結ぶような感じがし、人間のまごころというものは、バカにならないものだと痛感しました。
 北斗氏の『コタン』は手許にありません。貴下に一任しますからお選び下さい。
 尚、経費の見積もりをお示し下さい。気持だけでもお手伝いしたいと思います。
 以上 要件のみ申上げます。

四月廿ニ日     後藤 清香

 幼稚園児の写真が私の手許にある筈です(探せば)
 *後藤静香選集第十巻の静香年譜では、大正11年(1922)12月となっている。
 
昭和29年4月27日
 御申越の件「平取に浴場一つ……」が違星氏の切実な心境を最もよく現わしていると思います。私が筆をとることは御辞退します。何もこだわることなく上手にかける人に、誰でもよめる様に書いて貰って下さい。淡々と小生の申出を御きき入れ下さい。
昭和29年5月8日
「その後ずっと御元気ですか。先程加藤善徳氏が見え、生活館の話も出て今昔の感が堪えず往時を偲びました。辺地教育の問題が世論になりかけたまま、まだまだまだの事一層の健闘を祈ります。
昭和29年7月30日
 北斗兄のことに関する御努力を深謝いたします。経費を集める具体案御序に承りたし。荊妻廿九日永眠、昨日告別式挙行。大打撃です。まだ死亡通知も出せぬ取込中。設計図で大体の事分かりました。浴場は既に○○○できていると思いますが、念のため承りたし。いまの学校はアイヌと限られたものか。何に困っているのか。
 さらに昭和34年12月に後藤静香の希望社運動(大正10年~昭和6年)が盛んな頃、先生に薦められて小学校五年生の時のぞみを読んで、その後は『権威』を読み、希望社運動に傾倒していた松下幸之助の右腕、丹羽正治松下電工社長(昭和22年から昭和52年まで30年間社長)が、希望社解散後の後藤静香の消息を辿りようやく後藤静香師に面会し、師弟関係を復活させることになった。
 その際、丹羽社長は自費で社員用に「心の家」で発行した雑誌『新建設』を毎月3,300部購入、社内報とともに全社員に配布した上、後藤静香の言葉を集めた箴言集『権威』650部も購入した。
 丹羽社長の経営哲学の根幹に松下幸之助の教えとともに青年時代に薫陶を受けた後藤静香の教えが脈々とあったからにほかならない。
 偶々木呂子敏彦が昭和35年に帯広市役所の産業経済部長に就任し、西帯広工業団地を整備し分譲する段階で、市内からの中小の農業関連の製造業者や関連サービス業の移転立地だけではなく、工業団地の目玉として本州の大手メーカーの誘致を実現するのが最大の課題であった。
 『鳥の眼 みみずの目』に登場する三笑亭を常宿したのは、京都府長岡京市に本社のある松下電子工業の誘致のため訪問するためで、誘致の話が一向に進まなかった。その中で後藤静香の意を受けた加藤善徳が仲介役になって、木呂子敏彦は丹羽社長に会うため訪問することとなった。
 さらには木呂子敏彦の叔父になる木呂子幸四朗が開いた帯広の電器店「キロコ電気」は戦前からの松下電器の家電小売店であったことも功を奏し、松下電工がこの工業団地の中核誘致企業として立地することになった。
 青年時代、師の謹慎先の岡山県の長島愛生園を訪問した時に、偶然リュックに入れたパンを師へのお土産に渡したことに始まり、①師が大正時代に平取のバチェラー幼稚園の資金援助を行っていたこと、②二風谷小学校統合の記事をみて、すぐに学校存続を訴え、北海道庁に電報を送り存続させたこと、③偉星北斗についても東京時代に交流があり、違星北斗が北海道に戻ってアイヌ民族復興の志を抱き活動するのを経済的に支援し、彼の死後希望社から遺稿集『コタン』を出版したこと、これらの後藤静香の功績があった上に、二風谷の方々が偶々十勝沖地震で倒壊した小学校再建を公選制の教育委員をしていた木呂子敏彦に相談に来たことが重なり、シャモを見返す手作りの小学校を造ろうという考えに結びついたのであろう。
 また、偉星北斗の歌碑は、結局10年以上の歳月をかけ二風谷小学校校庭に建立されたが、この偉星北斗の歌碑への募金運動を通じて、偉星北斗の生涯の再評価につながり、木呂子敏彦の熱意によりNHK札幌放送局で全国に向けて偉星北斗の生涯をとりあげた『光を掲げる人々』が放送されることはなかったと考えられる。
 師後藤静香を岡山の長島愛生園を訪問した際に贈ったパンの利子は、40年の歳月を経て、木呂子敏彦が西帯広工業団地の中核企業の誘致に苦慮する中、最終的に松下電工が帯広に工場を立地させる形で結実している。